選ばれる理由

 教育勅語には、現代にも通ずる価値観がある。防衛相の稲田朋美大臣はそのように語っているという。たしかに、言っていること自体は特に間違いではないのだろう。しかし、価値観というのは、人それぞれなところがある。それでも、最大公約数みたいなかたちで、何か否定できないような価値があるということなのだろうか。

 積極的に否定したり排除したりするのには、それ相応の理由がある。しかし、この理由というのは万人を説得するほどのものではない。だから、いったんは否定されたり排除されたものを再び持ち上げようとする動きが出てくる。

 よい部分があるのだから、頭ごなしに否定したり排除したりするのは間違いである。そこまではよいのだとしても、そこから先が納得できづらい。というのも、かりに利害が対立していないのであればよいけど、もし対立してしまうのであれば、対象としては決してふさわしくはないからである。いわくつきのものをあえてとり上げるよりも、当たりさわりのないもののほうが、公的なものとしてはよりふさわしい。

 いわくつきというのは、利害が対立してしまっていることによる。人によって、それを正の価値として見たり、また逆に負の価値として見たりしてしまう。こうなってしまうと、どちらが正しいのかというのが定まりづらい。それでもむりやりに押し切ってしまうこともできなくはないだろうが、そこまでする意義が見いだしづらいのもたしかだ。むりやりというよりももっと巧妙であり、すきをぬうようにして入りこませるようにしている。いやらしいやり方だと言ってしまえば、言いすぎになってしまうだろうか。

 現代にも通ずる価値観がある、というのだけでは、理由づけとして弱いのである。現代にも通ずる価値観があるものは、世にたくさんありふれているわけだから、そのなかから何か適当なのを選べばよい。それでも、これでなくてはならないのだとしてしまうようなこだわりがあるとすれば、そうした心理も分からなくはないけど、主観的な物神性を見いだしているわけだろう。