けがれと気の量

 なぜけがれと見なされてしまうのか。もともとそうだったのではなくて、ある時から急にけがれとなったとすると、気が変化したことになる。けがれというのは、気が枯れることを意味するのだという。気の量が減ってしまうことでけがれになる。もともと与えられていた気が、何かの理由ではく奪されると、けがれになる。量的に見ればそのように言えるだろう。社会関係における、一つのできごとである。

 気の量の移りゆきというのは、株価みたいなところもあるかな。株価は美人投票だとも言われる。美人だとみんなが言っているものが、(じっさいに美人であるかはともかくとして)多く買われる。これはハレ(晴れ)であるだろう。しかし何かのきっかけで、よからぬ情報なんかが流れると、それが人々の耳に入り、株が買われなくなる(売られる)。そうすると株価が下がってしまう。不美人であるとなるわけだ。

 気の量が多いとしても、それはもともと上げ底だったおそれがある。経済学でいわれる、ネットワーク外部性がはたらいていた。考えを共にする賛同者をつのってとり込む。つながり合うことで、お互いに益になる。好況のさいにはこれは背中を押してくれるわけだけど、不況になるとかえってマイナスにはたらく。仲間であることをやめる離脱者が増えてゆく。

 人間というのは、自分の行動を正しいものとして、あとから意味づけをする。それが合理化である。自我の防衛の機制(メカニズム)の一つとされる。それまでは美人だと見なしていたものを、あるきっかけから不美人であると見なす。それまでの美人だと見なしていたのは間違いだったわけだけど、これは無かったことにしてしまう。もとから不美人だったことにしてしまうわけである。こうすることによって、一貫性が保たれる。

 正の価値をもっていたものが、負の価値になってしまうのだと、180度変わったことになる。このようになってしまうと、認知に不協和が生じる。その不協和を解消するために、元から負の価値だったとしてしまう。最初からそのように見なしていたとする。これで認知の不協和が解消されるわけだ。

 正の価値をもっていたのが、あるときから負の価値であるとされることになると、それは両義的存在者となることを意味する。これは見かたによれば、暴力をこうむったことになるだろう。暴力または権力がふるわれることにより、ある状態から別のありようへと激変した。それは当人の意思によるものではない(当人がのぞんだものでないのであれば)。中心から周縁へと、位置価が変わることになる。

 もともとよいとされていたものが、悪いと見なされるようになるのは、そんなに珍しいことではないかもしれない。一つの例としては、たとえば岩波系(朝日系)があげられそうだ。関係者ではないからそんなにくわしくはないんだけど、戦前においては、岩波系は書籍の代名詞だったという。とりあえず本といえばそれは岩波系をさしていた。それくらいの権威とありがたみがあった。しかし今では、世間的な評価としては、岩波系(理論)と朝日系(現象)はともに、大きく価値下げられてしまっているきらいがいなめない。ただこれは、好みのちがいもあるし、質のとらえ方のちがいだから、何とも言えないところではあるが。

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