言わない人たち

 一つの国の国民は、全体として見ることができる。全体がまずあって、そこから部分が成り立つ。そうであると、全体がまず優先され、部分はそれにならうような形になる。こうしたあり方であると、わりと分かりやすいとらえ方ができる。それほどややこしくはない。

 一つの国において、全体から単一に見るのではない見かたもできる。大づかみに言うと、表層と深層というふうに分けることができる。表層というのは饒舌であり、深層というのは沈黙による。饒舌というのはやかましいありようをしている。しかし、沈黙のほうはそうしたありようをしていない。饒舌が主張することに、沈黙は必ずしも同意しているわけではないが、かといってそれに表立って反論するのでもない。

 表層の饒舌さだけで全体が成り立っているのかというと、そういうことではないだろう。また、表層で主張されていることが中心にあるのかというと、そうとも言い切れそうにない。むしろ、深層の沈黙のほうが中心的である可能性もある。これは、ちょっと分かりづらいというか、あべこべなふうになってしまっている。有と無であれば、有ではなく無のほうにより大きな意味があるということである。

 饒舌を上部構造であるとすると、沈黙は下部構造のようなものだろうか。ゲシュタルト心理学でいわれる、図と地にもあてはまりそうだ。図と地は反転させることができる。図を地としても見ることができ、その逆も可能である。

 主張する側としない側とがあるとして、前者が成り立つためには、後者がいなくてはならない。後者は、前者が成り立つための必要条件の一つだろう。黙っていてくれる側がいるから、何かを主張できる側でいられるのである。かりに、みんながそれぞれ言いたいことを言っているのだとすれば、それは取りとめもないような、分散したものになってしまう。そうではなく、何かまとまった一つの主張となるためには、雑音(騒音)が意図して排除されている。

 まとまった形の一つの主張というのは、整っている。しかしそれは、錯覚であるおそれも否めない。つくりごとだ。主張と主張のぶつかり合いは、錯覚どうしの対立であるおそれがある。土台がぐらついている。そのぐらつきというのは、主張しない側である沈黙があることによっている。そうしたものを隠すことによって、あたかもしっかりとしたものとなる。

 おしゃべりが好きな人もいれば、おとなしい人もいる。おとなしいといっても、いざとなればしゃべる人もいれば、そうではなくどこまでも黙っている人もいるかもしれない。そうした人の内心をうかがい知ることはできづらい。本音を知ることは難しい。必要がないから語らないのではなく、どうせ言っても無駄だからなのかもしれない。火が大きいところに、ちょこっと水をかけてもあまり意味がないという。一粒の砂のような意見があっても、たくさんの砂の中にあれば無いにひとしい。ちょっと悲観になってしまうが、そうした面もある。