ヘイトスピーチへの対抗

 憎悪表現を町なかで叫ぶ。そのさい、それを防ぎ止めようとして、対抗する人たちが出てくる。この対抗する人たちが出てくることは、頼もしいものでもある。憎悪表現がやられているのを、ただ見て見ぬふりをしてしまうよりかは、じっさいに止めに入る心意気は立派である。

 なにか憎悪表現が叫ばれていて、それを止めに入ろうとするのは、人間の生のありようとも関わっている。人間の生というのは、何かに抗ったり拒んだりするような運動のなかで、その実感を確かめられるという面があるという。だから、憎悪表現が行われているのにたいして、そこに対抗(反抗)する人たちが出てくるのは、主体的意思の結果であると同時に、自然でもある。

 憎悪表現に対抗するのはよいことだが、そのさい、相手に向かって、死ね、という言葉を使ってしまうのは、どうなのだろう。これだと、憎悪表現を行っている人たちに対して、憎悪表現をしてしまっていることになる。同じ穴のむじなになってしまう。言葉のチョイスとして、死ねという言葉は避けたほうがよい。そのように言えるが、いわば緊急措置的なことで、そういう言葉を発してしまうとすると、絶対に使うなとはいえないかもしれない。渦中にいないから、冷静にいられるにすぎないわけだ。

 力への意志として、ますます相手側に勢いがついて行く。そのようなふうであれば、おそれを抱いたとしてもしかたがない。猿とはちがい、直立歩行をおこなう人間は、過去と現在と未来を(あるていどは)見通すことができる。それによって、たとえば予期不安なんかを強くいだく。そうした負の面もある。不安とは客観的なものというよりは、主観による心内の現象である。

 予期不安を将来にもってしまうのは、それが健全な範囲のうちであればとくに問題はないかもしれない。しかしそれと同時に、参照点をどこに置くかの点がやっかいだ。はじめの参照点を、すごく安全なところに置くこともできるし、また逆にすごく危険なところにも置ける。それは認知のちがいであるわけだ。視点を安全なところにおくのは、しばしばお花畑的な発想と見なされる。いっぽうでそれは、大人なありようともいえる。
 安全ではなく、逆に危険なところに視点をおいてしまうと、議論がしばしば幼稚になってしまう。危険さをやたらに煽りすぎるのは、認知の歪みのおそれがあるし、よくはたらくとはかぎらない。もっとも、そうした危機意識があったほうがよいことも少なくはないわけだけど。危機の意識なくしては、現実への認識をはたらかせることができづらい。

 憎悪表現にたいしては、その場で自浄作用をはたらかせて、防ぎ止めることも立派である。それと同時に、相手の主張にたいして、強い反論なり弱い反論なりで、話し合いで返してゆくという手もある。完ぺきに非のうちどころのない主張というのはないわけだから、その不完全なところをいかにこちらが適切にアタックできるかが問われる。相手がもし資本主義(帝国主義)的な加速度でくるのなら、こちらもそれにのっかるのではなく、あえて遅速度で対抗するのもありだろう。その場での勝ち負けはともかく、長い目で見たら、(忙しいのではなく)より暇な時間をもつほうが勝ちやすい。そのような面もある。

 固定したり、閉じたイメージをもってしまう。そうではなくて、できるだけ開いたようにすることもいるのかもしれない。ただそれは、言うほど易しいことではないのかもしれないのだけど。何か否定的なものがあるとして、それをけがれとして見るか、不浄(物)として見るかのちがいがある。そうしたことも言えるのだという。けがれというといっけん悪い印象だが、そうではなく、これは変化する否定性であるとされる。創造性や革新性をもつ。両義的存在者である。これをうまく生かせれば、閉塞を打ち破り、高次の学習ができるようになるかもしれない。

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