表向きの見せかけ

 言われたことや、記されたことを、そのままには受けとらない。どうしても裏を探ってしまう。表向きの見かけは嘘にすぎず、その裏にほんとうの真相が隠されている。こうした見かたがある。言われてみれば、たしかにこうした見かたをとってしまっているきらいがあるなと思いいたる。それと同時に、中途半端でもある。探究心が足りないせいだろう。

 なにか勇ましいことを言っているのを見かけると、それをそのままに受けとることはどうもできづらい。虚勢を張っているのではないかというふうにいぶかしむ。強がるのは、弱さのうら返しなのではないか、との勘ぐりだ。そうして、じっさいにどこかでふいにぽろりと生の心情(弱音など)なんかをちらとこぼしているのを見かけると、裏づけが得られたとして、妙に安心するようなこともある。そんなに強いわけはないよな、として、自分(が弱い人間であること)に引きつけてしまうのである。

 表向きで言われていることを、そのままには受けとりづらいのは、言語行為論が関わっているせいだろう。これによると、事実(コンスタティブ)と執行(パフォーマティブ)はどちらかに決めがたく、どちらとも言えてしまうようなところがあるらしい。決定不能さをもつ。執行というのは、ある発言の中で(in)、またはそれによって(by)、何かを成すことである。

 言われたことや記されたことが、もともとこうした 2面性や 2重性をもつ。それにくわえて、受けとるほうが、さらに解釈をはたらかせる。なので、ものごとが複雑になってしまうのだろう。たんに事実を言っているのでもなく、かといって反事実であるだけなのでもない、その中間みたいなのもおうおうにしてありえる。単一体(シンプル・ビーイング)ではないわけだ。こうなると、関係的な視点に立つことになるだろう。とはいえ、確固としては決めがたいとはいっても、それを押して単一的に決めてしまおうという衝動もある。