勝ちつづけること(負けないこと)

 快楽をよしとしたとされるエピクロスは、こんなことを言っているという。議論においては、勝つよりもむしろ負けたほうが、そのごに得るものが多い。負けたほうが、新しく何かを学べるというのである。負けてしまうと、負の感情や情動がついついおきてくることになるけど、それによって反省がうながされたり、次はこうしようなどといった気持ちも芽ばえてきやすい。とはいえ、なかには何も痛痒を感じず、まったく無頓着という場合もなくはないかもしれないが。

 負けつづけというのも気分が悪いものだが、逆に勝ちつづけてしまうのも問題なのだろうという気がする。勝ちつづけてしまうのではなくて、どこかで負けることもいる。勝つというのを過大化であるとすると、負けるのは過少化である。すると、勝つことで過大化しつづけるのは危ない。どこかで負けることによって、過剰さを処理しないとならない。過少化というと否定的なふうに見うけられもするが、あるものが持続して存続するうえでは避けては通れない、欠かせない一面である。

 勝つというのが至上命題みたいになってしまうと、神聖王権のようになりかねない。これは健全なあり方とはいえそうにないところがある。こうした純粋さをよそおう王権のようなものは、神話がからんでいることが否定できない。どのようなものであっても、まったく間違いの要素をもたない無謬なものなどは、現実には考えづらい。無謬さはえてして神話である。

 勝ちつづけるとはいっても、これから先をもし見すえるのであれば、あまりよい手だとは言いきれない面がある。むしろ負けておいたほうが、先につながることがありえる。というのも、いま勝てさえすればそれでよいとしていると、それは無理をしていることになるからである。無理はそう長くはつづかないものである。ほころびによって、きっかけがあれば破綻をきたす。たとえ無理とはいわないまでも、不自然になることはありえる。

 いま勝つことをことさらに重んじてしまうと、いまさえよければという、現在中心の一元論になってしまう。過去や未来はある種の他者なわけだけど、そのような他者である異質なものをこばむ。そうしたありようだろう。いまの困難を何とかしのいで乗りきれれば、その先にはよいことが待っているかもしれないが、逆に坂の上の(またさらなる)坂、という可能性もなくはない。底は底なし(底には底がない)、なんていうのもある。

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