いわく言いがたいこと

 説明がしづらい。だから、他へ向かって、自分の口から説明することをこばむ。そういう面があるのかもしれない。これは、自分のなかでものごとがきちんと整理されていないことを示す。未整理のままで、そのまま放置されている。

 何もかもが整然として、うまく説明できることばかりが世の中にあるのではない。現実というのは、はっきりと(数字でいうと)整数のように割り切れるのではなく、余りみたいなのがどうしても生じる。しかしそうはいっても、それだからしかたがないとして大目に見てもらえるとはかぎらない。説明しづらいものであるからこそ、逆にそこを押してまでして、うまく整理して説明できるような形にしておく。そうした配慮も、場合によってはあったほうがのぞましい。

 人間のなかには、わけの分からない心の奥のうごめきがあるとされる。これは、文豪の夏目漱石がたしか言っていたような気がするんだけど、狂気がその人の中にすっと通りすぎる瞬間があるのだという。狂気や魔のようなものがあって、瞬間的であるにせよ、それに乗っとられてしまう。もしそれが瞬間ではなくて持続的になってしまうようなら、なおのことリスクは高まるだろう。

 こうした狂気とか魔というのは、精神分析学でいわれる欲動(リビドー)にあてはまりそうだ。この欲動というのは、たとえば恋なんかで、よくわからないけど誰かを好きになってしまうだとか、惚れこんでしまう、といったものに見うけられる。それは善悪だとか、正誤なんかの区別を離れたものだろう。善悪や正誤の区別をつける前のものであるからこそ、それだけいっそう危ういものになりえる。理非曲直がないがしろになる。

 欲動のほかに、欲求や欲望というのもあるそうなんだけど、そうしたものがこん然一体となって人を突き動かしてしまう。そのようなことができるだけない方がのぞましい。しかしかりにそうなってしまったとしても、公的な問題なのであれば、これまでをふり返りながらできるかぎり他にむけて説明してゆくように努めるのがよいのではないか。そうすることによって、徐々に整理されてゆく。私秘的に、内にとどめておくだけでは、真相が明らかになりづらい。

 いろんな大人の事情があって、他に向けて説明しづらいこともあるだろうけど、そうであれば、未整理のままでそのまま手をつけずに放置してしまうのに等しい。公的な問題は、なるべく皆でその負の面をふくめて共有することが、今後の教訓にもなるのかなという気がする。今後に生かすことで、負だったとしてもそれが正に変わりうるのではないか。ただそのためには、当事者がつまびらかにさらけだすのをいとわないとさせるだけの、前もっての受けとる側の寛容さみたいなのがないといけないのかも。あとでどうせ叱られたり裁かれたりするのなら、口を開かないほうが身のためだ、となってしまうだろうから(ちょっと子どもっぽい態度ではあるが)。

 自分がなしたことは経験なわけだけど、その経験をいざ語るとなると、純粋なものに不純なものが混ざってしまう。生のものではなくて加工されてしまわざるをえない。伝えるさいの不確実さもおきる。しかしだからといって、何も言わないでいるのであれば、供給不足になる。その不足を補おうとして、虚実が入り乱れた即興の説明がちまたにはびこるような形になる。これはともすると響きと怒りとして、(必ずしもよいこととは言い切れないにせよ)抵抗や闘争の動きにつながるところがありそうだ。

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