問題設定のありかた

 国会での議論で、与党のやることを、野党が邪魔する。あげ足とりのようにして、足を引っぱる。そうなってしまうことで、肝心の中身のある議論が成り立たない。どうでもよいようなことばかりをやり合うようになってしまう。こうした現状があるとすると、悪いのは野党だとすることができる。悪くなってしまっていることの原因帰属を野党に当てはめられる。

 いちおう野党も有権者から選挙で選ばれているから、たんなる邪魔をしているだけだとは言い切れない。そこには有権者の一部の声が反映されているというふうにも見ることができる。そのうえで、いくら声が反映されているとはいえ、あくまでも代理にすぎないのもあるから、完ぺきなお墨付きのもとで動いているというわけでもないだろう。

 かりに与党のやろうとしていることや、今やっていることが正しいものだとすると、野党というのはたんに邪魔をしているだけに映る。権力闘争にかまけているにすぎない。ただ、そうはいっても、たんに権力闘争にかまけているだけだ、と言い切れるようなはっきりとした根拠はないのも事実だろう。いろんな思わくがあって、その中のひとつに権力闘争があると見なせる。

 問題設定(プロブレマーティク)として、どうしたら少しでも国会での議論がまともなものになるのか、というのがあげられる。これは、今行われている議論がまともとはちょっと言えそうにない、との現状認識から発しているものである。ひとつには、野党が足を引っぱったり邪魔をしなければ、もっとましなふうになるはずだ、というのがある。与党のやることに、基本としては、野党はただ黙って従っていればよろしい。よけいな口出しは不要である。

 そうした、野党を邪魔ものと見なしてしまうような問いの構造に、待ったをかけることができる。もうちょっとちがった問題設定をすることもできる。どのみち、与党がどこであれ、また野党がどこであれ、そこにはどの政党を代入することも可能だ。入れ替え可能である。したがって、立場を固定させずに、できるだけ関係的な視点に立ったほうがよい。

 たとえば、月を指さすとして、その指を批判するようでは有益ではない。少なくとも、お互いに月を指さそうとする者どうしとして、その理念みたいなものについては、共有し合っているとの認識がお互いにあったらよいのかなという気がする。そうではなくて、自分たちは月を指さしているが、あいつらはそうではない(ちがうものを指さしている)、と疑ってしまうと、そもそも話し合いの前提が成り立たない。そこは、できれば好意の原理によって見るのがよいだろう。でないと、陰謀理論がはびこることになりかねない。とはいえ、現実には好意というよりは敵意で見てしまうきらいはありそうだが。