原発事業の難航

 原子力発電の事業で世界の頂点をめざす。日本の製造業の会社である東芝は、そのような意気込みをいだいていたという。しかし結果として、アメリカの原子力の子会社が失敗した影響もあり、1兆円という前例を見ないような巨額の赤字を出すことになった。

 後出しじゃんけんのようにはなってしまうが、こうしたことが言えるだろう。東芝がなぜこのような巨額の損失を出してしまったのかというと、原発産業が計算しづらいリスクをもっていたことによる。2011年におきた東北大震災で福島の原発が事故をおこした。そのことで原発事業の風向きが大きく変わってしまった。

 経済というのは主として交換価値原則で動く。これは等価原理であり、市場原理である。比率と効率を重んじる計算的なあり方だ。何ごとも量によってとらえてゆく。そうしたあり方のなかでは、質的なリスクなんかは考慮に入れられない。質的なリスクは計算しづらいからである。それは、呪われた部分にあたる。

 質的なリスクを過小に評価してしまう。そのうえで、自分たちの利潤を極大にしようとして動いてゆく。これはあらためて見ると、蛮勇と言ってもさしつかえないかもしれない。少しでも手ごわい他の競合企業を出し抜いて勝ち上がってゆくためには、立ち止まってあれこれ案じているのではまずい。わき目をふらずに、つねに動態的に走り続けてゆかないとならない。加速度がものをいう。立ち止まるのは、極端には経済的な死を意味する。

 もともとが原発事業というのは、そのリスクを含めて見ると、非効率なものなのだろう。しかし、その非効率さは、以前は安全神話によっておおい隠されていた。そのおおいが取り払われてしまったことで、経済的に割にあわないことが露呈してしまう。

 原発事業というのは、もともとがそんなにきれいなしろものではないのもありそうだ。原発が立地する近くの人たちにリスクを押しつけてしまう。核廃棄物の処理をどうするのかもひと筋縄ではゆかない。ひとたび事故がおきれば、その被害ははかりしれないことになる。こうした負の要素に目をつむることは、現実を歪めて見てしまうことになりかねない。資本家という強者が、その資本力と科学技術力にものを言わせて、自然または(一般の)人間を道具化して支配する面があることは否定できないだろう。

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