筋書きにそって

 筋書き(ストーリー)をもってして、それに当てはめて見る。それは一つの物語でもある。物語による筋書きというのがあって、その筋書きにふさわしいものはとり入れられ、ふさわしくないものはとり除かれる。

 物語には三つの要素というのがあって、一つはその筋書きにおいて必ずなくてはならぬものである。反対に、筋書きにおいて、あってはならないものというのもある。また、あってもなくてもどちらでもよいものもある。

 ある存在者の自我において、それをおびやかすようなものから自我を守るために、防衛の機制(メカニズム)がはたらく。この防衛の機制では、秩序を保つために、自我をなるべく閉じようとする。内に抱いている価値の体系が壊れるのを防ぐ。こうしたときに、なにか固有の物語と筋書きがよすがとして求められる。これは大きな(大文字の)物語になるわけだろう。固定化して、全体化または同一化するようなものである。

 どのように現状をとらえるのかというのは人それぞれなところがある。とりわけ今の時代は、どのように現状を見るのかの確固としたものさしが得られづらい。第二次世界大戦のあとであれば、冷戦のなかで、自由主義(資本主義)か社会主義かといったわりと分かりやすいとらえかたがあったようだ。今はそうしたものがないわけだけど、だからといって何もかもを相対的に見ようとは必ずしもなっていない。ある単一の世界像なり世界観なりが需要され、供給されているところがある。供給者というのは、政治政党もふくむ。

 単一なある世界像なり世界観においては、そのなかにおける快適さが追求される。できるかぎり快適さをもたらすものがよしとされる。その反対に、不快であるものはよくないものとされ、負価値をもつ。快適さを邪魔するものであるために、うとんじられて、とり除かれることになる。そうはいっても、じっさいにはなかなかとり除くことができないものもありえる。それぞれに、自己保存力(力への意志)を持っているからだ。となると、いまいましいものとして、悪く評価づけられる。不快さにくわえて欲求不満をもたらす対象と見なされざるをえない。それは否定的なものとして実体化され、物象化される。物象化は、生きたものを物に変える死の世界である。

 筋書きの話に戻ると、このようなあり方もあげられる。まず現実があって、それから物語や筋書きがつくられるのではなく、その逆のあり方である。あらかじめ何らかの物語や筋書きがあって、それにふさわしいように現実が読みとられるわけだ。現実を見るときに、何らかの前もった筋書きによる負荷がかかることになる。観察の理論負荷性といわれるものがはたらく。このさい、物語や筋書きが一方にあり、もう一方(他方)に現実があるわけだけど、それ以外に第三の要素もある。

 第三の要素は、しばしば捨て置かれていて、陽の目を見づらい。この捨て置かれたものは、ある物語や筋書きが産出することになった、(潜在的な)新しい物語や筋書きである。この新しいものによって、古いものが乗りこえられる可能性がおきる。それは正統ではなくしばしば異端だろう。または境界的で周辺的な性格をもつ。

 こうした第三の要素をふまえてみると、大きな(大文字の)物語の単一性というのは成り立ちづらい。かりにそうしたふうであったとしても、その裏では、潜在的にもう一つの物語や筋書きが生まれ出ることになる。というのも、ある物語による筋書きでは、必ず何かふさわしくないとされるものがとり除かれているからである。相互性や複数性がおきざるをえない。

 そうした相互性や複数性は、あまり歓迎されるものではない。その理由としては、大きな(大文字の)物語から、ずれようとするように動くからだろう。大きな(大文字の)物語というのは、きちんとまっすぐに立つ。しかし、そこに相互性や複数性がおきると、ずれてしまうようになるため、斜めに傾く。まっすぐに立っていたものが、ぐらつくわけである。ぐらつくというのは、一見するとなにか否定的なふうにも見なせるが、一方で活性化することでもある。ぐらつかないでまっすぐに立っているのは、安定しているが、活性化はしづらい。