すべての行為は逃避である(とも言えるらしい)

 逃げることは可能である。しかし、たとえ可能であっても、それがなかなかできないことがある。それはなぜなのかなというふうに案じてみると、一つには、精神分析学でいわれる上位自我(超自我)との関わりがありそうだ。上位自我が、ここは逃げるべきときではない、との内的な命令を発していると、それを聞き入れなければならなくなる。完全に聞き入れるのではないにせよ、そうかといってまったく無視することもできづらい。

 日常というのは、時間として見ると、クロノスといわれるあり方である。これは平凡な時間の流れであり、何か突飛なことがおこるものではない。たいていは、自分が予想や予期したことの中におさまる。しかし、一大決心なんかをして、現状を捨てて逃げるという決断を下すのだとすると、それはカイロス(時機)といわれる時間がおきることになる。機会が巡ってきて、時節が到来したのである。

 日常のふつうの時間の流れであるクロノスにおいては、突飛なことがおきることがあまりない。そこでは、何か日常を大きく逸脱するようなものが禁止されていて、否定されている。抑圧されているともいえそうだ。そこへ、カイロスであるような、新しい物語が始動する時間がおきると、これまでの日常できいていた禁止がきかなくなり、侵犯される。否定されていたものに回帰するようになる。あるていど閉じていたなかで展開していたものごとに、新しい風が入ってきて、開いてゆく。

 帰属(アイデンティティ)が強すぎてしまうと、逃げることがしづらくなる。そうではなくて、個性(パーソナリティ)が許されているようであれば、逃げることもしやすい。そうした違いがありえる。できるだけ個性が重んじられるようになれば、逃げることもしやすくなりそうだ。他からの干渉が少ないありようである。自分の内にある上位自我からの要求の突きつけもあるわけだけど、これもできるだけ相対化できたほうがよさそうだ。