奴隷の認知

 何らかの外からの圧や干渉によって、思考が停止している。自分で考える意欲が湧いてこない。それが奴隷状態なのだという。作家の田中慎弥氏は、『孤独論』という本のなかで、奴隷をこのように定義しているのを見かけた。

 奴隷というのは、それなりに目を引くという点で、わりと熱量の高い語だと思うけど、それと同時に、とくに珍しいものでもないところがある。だから、とりたてて説明に感じ入ったわけではない。ありふれているということで、多少の既視感を感じてしまったくらいでもある。しかし、あらためてふと思い直してみると、けっこう的を得ているし、大事なのかもしれないな、という気がしてきた。

 奴隷か奴隷でないかのちがいというのは、マインドフルネスにも通じてきそうだ。そういう自分への認知をはたらかせることは、マインドレスをあらため、マインドフルに近づくためには、有益にはたらく。まったく気づいていないよりも、少しでも気づいていたほうが、そのごの展開は変わる。そのような気がする。

 奴隷になってしまっているのを、一つの負の原因と見たてることができる。そうすることで、自分のわだかまった感情を少しでもいなすことができるかもしれない。他律であることから脱して、自律や自由であることへ少しでも近づくようにできるのではないか。

 奴隷というのは、質ではなくて量として人や物を見なすことにもつながってくる。人間が労働力として一つの商品と見なされ、量によって価値がはかられてしまう。そうしたあり方は、近代理性による合理的な計算の発想からくるものである。量化できないものは質(クオリア)なわけだけど、量の一元論においては、その一様さを妨げる厄介なはみ出しものであらざるをえない。

 (経済の)権力にとって邪魔なものは、のぞましくないとされ、排斥されてしまう。支配されるのをこばむ者だ。これは非同一なるものである。一方的な権力の野蛮な力にたんに従うだけではなく、たまには抗うこともなくてはならない。抗わずに従ってもかならずしも悪いわけではないけど、そうすると自発的服従になる面がある。そこには、(価値をねつ造する)僧侶による権威の力が知らずうちに入りこんでいる。