よき行動原理

 日本人は性善説で動いている。先日、日本外国特派員協会で会見した森友学園籠池泰典氏はそのように発言していた。この発言には、ちょっと引っかかってしまった。籠池氏のこの言明がかりに正しいとするとして、そもそも日本人の集合(範ちゅう)のなかには、いわゆる一般的な日本人を当てはめてもよいのかな。そうすると、たとえば野党(の一部)や朝日新聞といった、左側の人や集団もみなもれなく性善説で動いていることになる。それでよいのだろうか。

 この発言は、歴史について述べたもののなかのものである。日本人が歴史上で悪いことをしたと言われているが、そもそも日本人は性善説で動いているので、まったく悪いといったようなことはしていなかった。そのように述べている。この意見は、とりようによっては、心情についていえば、ちょっと分からないでもない。

 心情については分からなくもない面はあるが、いっぽうで、日本人を何かの原理で基礎づけようとしたり根拠づけようとしたりしているのは、いただけない。典型的な基礎づけ主義の発想が見てとれる。しかしそもそも、端的にいって、日本人とは自明なものではなく、謎であるものなのだろう。したがって、その謎を何かで穴埋めしてふさいでしまおうとするのではなく、謎は謎のまま、穴のあいたままにしておくべきではないか。そうした同一化の志向への批判は成り立つだろう。

 あらためて悪ということについて見てみると、それは共感を絶するものであり、ふつうの日常とは次元を異にすることでもある。受け入れやすいものではない。とくに日本人は、こうした彼岸に位置する超越みたいなことがらのあつかいをわりと苦手とするのではないかな。おなじ日本人のはしくれである自分が言うのも何だけど。

 善や悪なんかは、いさぎよさをもってすると見誤りかねない。単一的(シンプル)ではなく、複合していることが少なくなさそうだ。ミルフィーユのように重なり合っていることもある。なので、過程を短縮して、結論をすぐに出してしまうと、ごく表面的なところをとらえただけで終わってしまう。そうではなく、できれば粘り強さをもつほうがのぞましいだろう。しかし現実には、属性をあてはめてそれで終わりにすることが多い。その属性にうまく合わないものは、たとえ重要な要素であっても無視されてしまう。これだと、一つの意見(常識)ではあっても、事実にまでは踏みこめているとは言いがたい。

 非日常のことがらのあつかいが得意ではないからといって、自由主義史観のように、歴史を都合のよいようにねじ曲げて受けとってしまうのはちがうだろう。ねじ曲げるという点については、悪いものをよくねじ曲げているのではなく、よいものを悪くねじ曲げているのだという意見も成り立つ。籠池氏は、よいものが悪くねじ曲げられているとの立場をとっているのだろう。

 日本人が性善説で動いているのはよいとしても、そもそも東アジアの国は儒教文化圏として、みな性善説で動いているという説があるそうだ。だから隣国である韓国や北朝鮮や台湾や中国もみな同じようにして、性善説で動いている。とりたてて日本が特別だということにはなりそうにない。しかも日本が発祥の思想でもない。

 性善説はダイナミックなものでもあるらしい。だからこそ、自由主義史観みたいにして、歴史を故意にねじ曲げてとらえてしまうようにもなる。何が善であるのかの合意が得られづらくなってしまう。ほんらい性善説では惻隠心をはたらかせるものなのだろうけど、その志向性が自分へ向かってしまうと、過去になしたことの強引な合理化につながる。そういった合理化はのぞましくないという反対意見にも、それ相応の善(理)を認めてもらえればさいわいだ。

 性善説による惻隠心で、その志向性が自分に向かう。これは自己愛(自己陶酔)につながる。直接性をとるということをあらわす。そのさい、障害となるものを邪魔ものとして、壊してとり除こうとする。これはいささか危険な発想だ。また、虚偽によるロマン的な動きにもつながる。たまには、直接的な現前の虚偽性をふまえてみることも必要だろう。完全に純粋で、かつまったく無媒介なものなどはない。そうした面も無視できなさそうだ。

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