蜘蛛の子を散らすように

 それまで親しかったのが、一転してくもの子を散らすように退散してゆく。一目散に去っていってしまう。なぜ、それまで親しかったのにもかかわらず、あるきっかけによって散り散りになってしまうことがおきたのか。そこには不回帰点(不連続点)があると言えそうである。旋回点であり、断絶である。

 親しかったということは、たがいに価値観を共有していたことを示す。そのようなあり方が、あることをきっかけとして変わってしまう。形態(ゲシュタルト)が壊れた。その変わりかたというのが、一人の人を犠牲にする形になることもある。そのばあい、その犠牲になった人は、可傷性(ヴァルネラビリティ)をもつ。悪玉化である、スケープゴートになった。(スケープ)ゴータビリティとして、被悪玉化度の度合いが高かったのである。

 価値観をおたがいに共有していたから親しむことができていたわけである。しかし、そのうちの一人を犠牲にすることでみなが散り散りになったとすると、犠牲になったその一人は外に叩き出されたことになる。その人だけ価値が大幅に下る。当人にとっては悲劇だ。しかし、その過程だけをとってみれば、はたから見たら喜劇(コント)に映る面もなくはないかもしれない。はなはだ不謹慎ではあるが。

 おたがいに親しかったのであれば、それは距離が近かったのをあらわす。あわれみの情がはたらいていた。しかし、あることをきっかけとして、一人を中心にしてみなが散り散りになったとすると、距離化による分散化がおきたことを示す。そこには、恐怖の情がはたらいている。その一人の人にたいする恐怖の情が、みなを散り散りにさせる。恐怖をもよおすものからは、なるべく距離を保ちたい。そうした気持ちがはたらく。

 もし、勇気をもった人が一人でもいるのであれば、その恐怖をもたらす人から逃げることはないだろう。逆に近づいて行きさえするかもしれない。あわれみの情をもってして、その人に共感の意を示す。そうした奇特な人も、場合によってはいるだろう。ただ、その人も同じように可傷性や悪玉化におちいるおそれもある。巻きこまれてしまう。自分が犠牲になる危険性をいとわないのだから、その人には倫理的な勇気があることになる。なかなかそうしたふうになることはできない。へたれであるせいか、恐いものからはどうしても一目散に逃げてしまうし、自分が巻きこまれたくないと思ってしまうのも、正直なところだ。