上下のくいちがい

 関わっていたことを、けっして公言しないでほしい。関わっていたことを、隠しておいてほしい。こんなふうに条件がつけられたうえでの付き合いをするのだと、ちょっと不自然なふうにも思えないでもないところがある。ふつう人と人どうしの付き合いは、できればおおっぴらにやりたいものだろう。なに気がねなくありたいものだ。そうではなくて、こそこそと裏でやるような付き合いなのであれば、あまりしたくはない。

 言う側はとくになんともないかもしれないが、言われた側としては、引っかかりのようなものをいだく。条件をつけられる側は、なぜそんな条件がいるのだろうか、と少しだけいぶかしむ。そのような引っかかりを覚えたとしても不思議ではないだろう。

 こうした条件には、差別化が横たわっているのが見てとれそうだ。けっしてたがいが対等な関係性ではないことを示している。条件をつける側が上で、つけられる側が下であることになる。とくに何ともなく、つつがなければこの差別化は保たれる。

 何ごともないときは、非情かつ厳然たる区別は、差異化の下にうまく隠されていることになる。しかし、いざ事がおきて、もめてしまうようになると、不合理な区別であるおたがいの上下の差が前に出てくる。事がひとたびおきてしまった以上は、その不合理なおたがいの差を認め合うのは、下に位置する者にとっては受け入れがたい。

 いくら位が上であるとはいっても、あくまでも相対的なものでしかないのもたしかだ。下克上として、上とされる他者を否定するべく闘争にいたる。市民社会の論理では、封建主義とはちがい、絶対的な上下の間がらとはなりづらい。個としては対等だ。不合理な上下の差別をよしとせず、あらためようとする。そのため、主人と奴隷の弁証法がおきることになる。主人が気を抜いて安穏としているなかで、奴隷は自分を鍛えて陶冶してゆく。うまくすれば主人とわたり合える力をつけるようになる。