だます側とだまされる側のからみ合い(魚心あれば水心)

 私人が、国家にたいしてけんかを売る。そのことがどれだけ大変なのかを、分かっていない。その大変さを、とくとその身で分からせてあげるしかない。そうした趣旨のことを、自由民主党の国会対策にあたる幹部の議員が発言したとの報道を目にした。この発言は、かつての国家主義を彷彿とさせるところがあると言わざるをえない。

 明治時代なんかだと、国家は公として、私におおいかぶさっていた。公と私がもしぶつかり合ったら、私が勝つなんていうことはまずありえない。国家である公が勝つに決まっている。それのみならず、目をつけられた私は、その人生を徹底的につぶされてしまう。そこには慈悲はひとかけらもない。

 さも見てきたようなことを言ってしまったが、こうした事例はじっさいにあったことであるという記録が残っている。国家である公は、けっして淡白なありようをとるわけではない。しつようであり、しつこいくらいに邪魔な私を叩きつぶす。国家の公ににらまれた私は、生身の個であるわけだけど、権力の前では、いかに抗おうとも、なすすべがない。

 公が大きくのしかかるところでは、領域としての公が幅を利かせている。あたかも国家のつけたりであるかのようにして、公へ歯向かうのでないかぎりにおいて、私はその存在を限定的に許されているにすぎない。

 話は少し変わり、かりに国家である公と私とのどちらか一方が他方をだまそうとしたとする。このさい、どちらがどちらをだます可能性が高いのだろうか。いちがいには言えそうにないが、一般論として言うと、より賢いほうがだまし、賢さに欠ける(愚かな)ほうがだまされると見ることができる。

 国家の公よりも、私のほうが賢い可能性はあるのだろうか。その可能性はゼロではないにせよ、けっこう無謀なことのような気がする。やろうと思ってできないことではないだろうけど、国家の公よりもより賢くなければならない。そうではなくて、国家の公のほうが、私よりも賢い可能性のほうが高いのかなという気がする。公のほうが、私よりも、色んな意味で、うわ手である。

 いつも政治家にだまされてしまう側は、たいてい国民である。そういうことが多いのではないか。政治家(または官僚)は、言葉巧みに国民をごまかし、その目をすり抜ける。そういう悪知恵にだけは長けている。ちょっと悪く言いすぎているかもしれないが、そうした面がありそうだ。