替えがきかないがゆえの強さ

 一強多(他)弱だといわれている。これは、いまの与党である自由民主党以外に、現実的な選択肢があまり無いせいなのがある。それと似たように、なぜ自民党安倍晋三首相が強いのかというと、安倍首相個人としても、党内で一強多(他)弱みたいになっていそうだ。

 安倍首相は、意識してかそうでないかはともかくとして、党内(と党外)のほかの人が総理大臣に育つ芽を摘みとってしまっているのではないか。その芽を内にとり込んで栄養源にすることで、安倍首相は強さを保っている。こんなことを言うと、それはちがうとして反論を受けてしまうかもしれないが。

 党内に、いくらでも首相になれそうな器の人がいれば、安倍首相は強くはいられないのではないか。弱くなってしまうような気がする。したがって、強いとはいっても、それは党内において、または政界においての、相対的な強さであり、絶対的なものではない。関係的な強さと言ったらよいだろうか。

 安倍首相の政治的な力量を否定するのはおかしいかもしれない。とはいえ、その力量を発揮するほどに、まわりが弱くなってしまう。しっかりした器の人が出てきづらい。そうしたトレードオフがはたらく。このように言うことができそうだ。かけがえがないものになっているために、それを失うのを嫌う。なんとか守ろうとして、擁護する人が生じる。そうした動きを、一概に責めるのは誤りかもしれないが、かけがえがあるものとして、代替できたほうがよいかなと思える。