不確実さの払しょくのための監視

 監視役を送りこむ。アメリカのドナルド・トランプ大統領は、自分が指名した閣僚が、言うことをきちんと聞いているのかどうかをチェックする人員を送りこんでいる。そのような報道がされていた。

 閣僚が必ずしも自分の言うことを聞くとはかぎらない。その保証がないのだから、やっていることをチェックするのは、発想としてはそこまでおかしくはないとも受けとれる。しかし、それと同時に、閣僚にたいして不信感を持っていることがあらわれてしまってもいる。心から信じているわけではない。

 監視役がそばにいるなかで仕事をするのだと、閣僚としてはやりにくい環境であると言わざるをえない。やりやすい環境であるとは言えないだろう。ほんらいであれば、じっさいに仕事をする現場により近い人に、できるだけ自由にものごとを判断する裁量が与えられていたほうがよいのではないか。そのほうが、柔軟な対応ができるし、効率もよい。現場に近い人のほうが、情報量が多いのもある。

 自分のまわりにスパイがまぎれ込んでいるとか、敵がひそんでいるだとか、裏切り者がいると思ったとしても、それはそれでしかたがない。それは個人の気持ちのもち方だし、その可能性がゼロではないのもある。そうした疑りの気持ちを、じっさいに反映させてしまうと、それが吉と出るかは定かではない。疑いが晴れるとはかぎらず、いっそう増すおそれもある。また、国益や、国民の効用とのつながりもはっきりとはしがたい。

 上司が部下のやることを監視するのは、そこまでおかしいことではない。そういう面もあるのだろうけど、なんとなく一望監視装置(パノプティコン)を連想させるところがなくもないと感じた。そうした規律の権力の作用をはたらかせている。こうしたあり方だと、自律ではなく他律になってしまうのはいなめない。

 社会的矛盾の点に立てば、自分に非協力な者を一切いなくさせるのは不可能だ。あるていど不透明になるのはしかたがない。もっとも、そうしたありかたは、国の長であるトランプ大統領にとっては、はなはだのぞましくないものかもしれないが。それとなく監視して、少し圧をかけるくらいであるのなら、そこまでやり過ぎだというわけではないのもありそうだし、一概に批判するのは当たらないのもあるのかも。