基地としての学園

 大阪の森◯学園の問題では、教育においての保守思想がとり上げられた。そして、学園を支持して応援に駆けつけた大人たちも、右寄りの論客の人たちで占められていたようだ。保守や右寄りだからといって、それだけをもってして非難されることはないかもしれない。しかし、その傾向が法(教育基本法)の決まりを超えてしまってはまずい。

 森◯学園では、なんで思想の偏りの教育スタイルがとられたのだろうか。それは一つには、保守や右寄りの思想のための拠点にしようとしたのではないかという気がする。基地(ベースメント)にしようとした。なぜそうしたものが必要だったのかといえば、自分たちの心のより所たるべき安全基地(セキュア・ベース)をつくりたかったのだろう。駆けつけた大人たちはそのプランに感動して、もろ手をあげて賛成した。

 凛とした人に育ってほしい。この願いはいっけんするとまっとうだ。しかし、裏を勘ぐることもできなくはない。凛としてしっかりとするということは、一本筋が通っていることだ。一本筋が通っているというのは、基礎づけられていることを示す。同一化されて、全体化される。こうした流れを見てとるのは、よこしまな部分もなくはない。たんに、無気力なのではなく、活力のあるしっかりとした国際人になってほしいだけかもしれない。

 基地をつくる発想から、学園のあり方が形づくられた。それがあることで、関わる政治家の人たちにもうま味がある。自分たちの政治信条に親和的な人を育てられる。即物的な言いかたをすると、再生産できるのである。そして、学園にかかわる関係者の中には子どもの保護者なんかもいるから、そういう人たちをもとり込むことができる。母校愛の心理がはたらく。

 基地が必要だったのには、ほかの学校は基本として自由主義のあり方によっているせいもありそうだ。自由主義による教育では、どちらかというとメタ的なあり方をとる。中立性があるということだ。しかしそこへ、紅一点みたいなふうにして、実質的つまり偏りのある教育を打ち出すことで、差別化がはかれる。たとえ偏りがあるとはいえ、強く支持して応援してくれる人もいる。ウェブを含めて、世の中の風潮も、後押ししてくれる風が吹いてきつつもある。

 大半の学校は自由主義による教育をおこなっているといえる。しかしそれだと、心のよすがとかより所とはなりづらい。どちらかというと、自分で調べて知ってゆくみたいなあり方を推奨しているのもある。それぞれの勝手を許す。こうしたあり方だと、不確実さが残る。とりわけ(一部の)政治家の人たちにとっては、自分たちの確実な支持層たりえない。即物的にいうと、支持者が生産されないわけだ。なので、イデオロギー的な生産拠点となる教育の場所が必要だった。

 自由主義による教育が近代的な啓蒙によるとすれば、保守や右寄りの教育は前近代的神秘主義にあたるだろう。神秘主義といってしまうとやや語弊があるかもしれない。これは神話と言い換えてもよいものだ。ほんらい、前近代から近代へ移るさいに、魔術からの脱出を果たしたはずだったという。ところがまたそこへ回帰しようとしている。

 近代に入り、自由が増えたことはたしかだと言われる。それはまことにけっこうなことである。科学技術の発展の成果もあり、物質的富にも恵まれている。経済活動の自由がよしとされ、市場において自由に価値を取り引きできる。民主主義によって、政治的な活動もおこなえる。こうした面をとり上げると、世の中の全体が昔よりもよくなっていることはまちがいない。

 よくなっていることもある中で、そうではない部分もある。たしかに行動や発言の自由はあるかもしれない。しかしそれはあくまでも形式的なものにとどまってしまっていると言わざるをえない。昔に比べて、実質的な自由が増えたとは言い切れない。むしろ減ったおそれもある。科学または経済の論理が、全体を支配してしまっている。われわれには、同質化圧力や、数に換算する力が上からのしかかってきている。それによって、機械の部品のような無機的なありようにならざるをえない。生のありかたが断片化され、疎外される。

 こうしたなかで、それを改めるべく、民主主義の中からなにか専制主義(独裁主義)的なものが突出してくる。そうした世の中の動きがおきても、とくに不自然ではない。不自然ではないとはいえ、危険な徴候であることもまたたしかだ。民主主義は、けっして社会の安全や安定を保証しない。右にも左にも何にでもくっつく。(音楽には素人ではあるのだけど)かりに音楽でいうと、平均律のようなものだろうか。どの調性にも移調できるという。

 底ぬけに柔軟だといわれる資本の論理の中でよしとされるような、加速度または高速度の発想にのっかってつっ走るのはあまりのぞましくないだろう。あらためて、あえてスピードを遅くして立ち止まりつつ、来し方行く末をどうするのかを検討することもいるのかもしれない。くわえて、方法的な確実さをあえて手ばなして、がい然性をふまえた近似的な視点に立つ。まあまあとかだいたいのアバウトさをとり入れつつの、異なる者どうしの対話ができればよさそうだ。