動機と結果のつり合い

 首相夫人は公人ではない。私人である。自由民主党は、与党の政権として、このような閣議決定を下した。この閣議決定については、賛否が分かれている。どちらかというと、否なのかな、という気がする。やはり、純粋な私人であるとはいいがたい。ただこれは、人によって見かたが分かれるところなのだろう。

 首相夫人である安倍昭恵氏は、大阪の森◯学園問題において、その当事者の一人である。なので、いちど記者会見を開くなどして、申し開きなり説明なりをしてもらいたい。こうした意見があり、自分もまたそのように感じる。ただ、夫人を公衆の面前であたかもさらし者にするようなふうになるのであれば、それはまたそれで趣旨がちがってきてしまう面もあるかもしれない。

 はたして、夫人に悪意はあったのかどうかというと、それはなかったという気がする。悪気がなかったことはおそらくまちがいがない。たんに日本を活気づけようだとか、よくしてゆきたいという気持ちから、さまざまな活動にとり組んでいたのだろう。

 そうした悪気のなさはよい。そのうえで、これは一般論になってしまうのだけど、人間が何かを行うさいに、それがまったくの私利私欲のかけらもないものであることはまずありえない。たとえ慈善行為であっても、それは自分が気持ちよくなるためだろう、と言われれば、それを完ぺきに否定することはできなくなる。

 その主張への反論もできる。なにも一般論がすべてではない。悪気がなく、かつ善意のみからくる行動や発言もなかにはある、として何がいけないのか。たんなる邪推のしすぎなだけだろう。他人のやることをとやかく疑うのは、そういう見かたをするお前の心が汚いだけだ。そうした批判を受けるかもしれない。その批判は、正直いって耳が痛いこともたしかだ。

 話を戻して、なぜ夫人は釈明に出てくることがいらないと言えるのかというと、それは、悪気がなかったとしているためだろう。かつ、法に触れるほどの問題でもない。だから、たしかにきちんとした釈明をしなくても、それはそれでよいとも言える。そのうえで、そこには大義を重んじる心性がはたらいているという気がする。

 すなわち、大義が正しいのだから、結果がたとえどうであれ、それは許されるのだ。そうした見かたである。大義のほうに重きがあるのであり、それさえ正しいのであるのなら、報道機関がどうそれを受けとったとしても、報道のほうがむしろまちがっているのである。たんなる目先のお金もうけにすぎない。獲物に群がるハイエナのような。

 じっさいに活動する当事者である夫人が、動機主義でものごとにとり組む。そしてそれを評価する者が、動機論的な忖度をはたらかせる。こうしたところがあるかなあという気がしている。こうなると、結果が軽んじられてしまう。くわえて、結果のみならず、帰結もまた軽んじられる。このように結果や帰結が軽んじられてしまうのはいささかまずい。なるべくそこを尊重してもらえればさいわいだ。