生き残るために

 政治家の使命は、まずなによりも自分が政治家として生き残ることにある。生き残れなければ話にならない。とすると、それがいちばん上の優先順位となる。

 政治家は、自分が政治家として生き残りつづけるという目的合理性によって動く。とはいえ、それがすべてではなく、またいつもいつも意識しているわけではないだろう。しかし、いざ何かことがもち上がったさいに、いちばんに頭をかすめるのは、生き残るという目的だと見なせる。判断基準となる。

 自分が政治家でいつづけるという目的合理性にとって邪魔なものは不合理である。合理主義の観点に立てば、そうした不合理なものは障害でしかなく、排除するしかない。この排除されるものというのは、呪われた部分といえそうだ。

 なぜ排除されてしまう呪われた部分が生じるのかというと、利用価値がなくなってしまったことによる。この利用価値というのは、あくまでも合理主義の観点に立ったときに、ということだ。目的を果たすのに貢献するのでないばかりか、かえって足手まといになってしまうものは、合理性がいちじるしく低い。

 目的合理性にそぐうというのは、その目的を核とした世界像に適合するということだ。適合するのであれば、いっけんすると肯定的なふうにも受けとれる。しかし必ずしもそうとは言い切れない。というのも、いま現にぴたりと適合しているのだとしても、それを裏返せば、これから先においてもずっと適合できるとはかぎらないことを意味する。まわりのものごとは常に動いてゆくからである。たとえば結婚式で永遠の愛を誓った男女も、時が経てばその関係がうまくゆかなくなってしまうことも、残念ながらある。

 自分が政治家でいつづけるという目的合理性は、そうした世界像による秩序を保つことだろう。その秩序には、乱雑さ(エントロピー)が時とともにたまる。その乱雑さを排出しないといけなくなる。乱雑さとは、周波数がずれて合わなくなってしまった音のようなものでもあるだろうか。いままでは、周波数が合っていて、うまく機能していた。しかし何かの加減で雑音と化す。うまく波長を合わせられなくなった。そうすると、乗れなくなるのである。であれば、乗れなくなった部分をとり除くしかない。このさい、なたを振るわれるのが、弱者になるだろう。

 日本ではかつて講というものがあったそうだ。これは仲間うちで実利を共有しあう相互扶助の小集団である。こうした講の中では、意思疎通が滑らかに行えるかもしれない。しかし、基本として皆が皆もれなく協力者ばかりといった集団は考えづらい。協力的でない者がいるのが自然だ。協力的でない者とのあいだには、意思疎通の渋滞がおきてしまう。なぜそうした渋滞がおきてしまうのかというと、それは実利という媒介がうまくはたらかなくなってしまったときが挙げられそうだ。実利は媒介としてはそれほど安定したものであるとはいえない。