遠近法と自由

 遠近法が一つだけだと危ない。そのような面があるのではないか。自分の思想があり、それに近いものをとくに優遇する。遠いものはうとんじる。うとんじるだけではなく、嫌いもして、攻撃する。近くもなく遠くもないものは、ほどほどにしか関心をもたない。こんなふうになってしまいそうだ。

 遠近法を一つだけではなく、いくつももつようにする。こうした心がけがいるのではないか。意識してそうする。でないと、特定の者ばかりを利するようになってしまう。これでは公平なありようとは言えそうにない。思想に近い者はよいが、遠い者はさげすまれてしまう。人間はだれしも、気に食わない者には温かい気持ちをいだきづらいところはあるわけだけど。

 距離化においては、近いものを好んだり憐れんだりする。遠いものは恐怖の対象になる。遠ざけるわけだ。そうした感情のもち方が、必ずしも誤りであるとは言えそうにない。しかしそこに、認知の歪みがまったくないとはいえない。自分たちとことなった異な者を遠ざけて、恐怖する。そうしたあり方はとくに不自然なことではないのはたしかだ。しかし、一と口に異な者とはいっても、その範ちゅうにはじつにさまざまな価値がある。できるだけ部分に分けてしまい、微分化するのも有益だ。

 一説には、人間は目で遠くにあるものを見ると、心身が緊張をもよおすという。であるなら、その目で見る対象を近づけて見ることもあればよい。そうしたらあんがい等身大に映り、とくに何ということもないかもしれない。外国人恐怖症についてはそう言えそうだ。恐怖を乗り越えよ、とはいたずらには言えないわけだけど、文脈や構造がぶつかり合うだけでなく、それをすり合わせるのもあってもよい。

 遠近法がたとえ一つしかないとしても、いったいそれの何が問題だというのか。そのように言うこともできる。たしかに、一つだけの遠近法をもつ自由はあるだろう。そのうえで、他人がそれとはちがったものをもっているのになるべく寛容であることもいる。そうしたあり方が理想だろう。

 理想というだけではなく、現実には、複数の遠近法がはたらく場としての社会をふまえざるをえない。社会は純粋でもなく無矛盾でもない。ときの権力に協力的な者ばかりだったらかえって変だ。そうしたわい雑なものを捨象してしまい、たったひとつの見かたにのみ正当性をおくのは、自由が損なわれ、息苦しいふうになりかねないところがある。一つだけではなくて、ビビンバみたいに、または合金(アマルガム)のようなのがのぞましい。音楽でいう和音のような。たとえ不協和であっても、その矛盾や亀裂には、テクストの悦楽がある、と思想家のロラン・バルトは言っているという。

 一つだけの遠近法をよしとするのは、古典主義的ということになるかな。でも今の時代にそうしたあり方をとると、純粋なものではなくて、あくまでも振りであるという擬古典主義になってしまいそうだ。統合(ユニテ)にはいたらない。いっぽう、複数の見かたがあるとするのはバロックのようだろうか。バロックでは複数の視点を許すのだという。それが増殖してゆく。

 社会においては、なるべく息がつきやすくて自由なのがよい。そうかといって、じゃあ何でもかんでも好きなような見かたをとってもよいのかというと、そこまでは言えそうにない。他者危害原則のような、相手をいちじるしく傷つけないような最低限の決まりをふまえるのがいる。そのうえで、自由主義の観点からすると、メタ遠近法のようなものがいるかもしれない。実質的ではなくて中立的なものとして、最大公約数的な合意のようなものである。この最大公約数というのは、道徳による共通善ではなくて、さまざまな利害のあいだの折り合いによる調整ということだ。

 遠近法が一つだけだと、一元論になり、教条化されかねない。それと比べれば、二元論で見たほうがましなところがある。建て前の押しつけだと正義の過剰になりかねない。かといって、建て前がゼロだと生きてはゆけない。そういった面があるのだという。空間でいうと、理の空間だけではなく、気の空間もあったほうが息が抜ける。しかし現状はなかなかそうはなっていない。求心性だけでなく、遠心性もあるとよさそうだ。帰属(アイデンティティ)だけではなく、そこから逃れる個性(パーソナリティ)もあれば、個体的変異の芽ばえをうながし、進化につながる。

 たとえば日本では、経済一元論みたいになってしまっている。売れれば勝ちみたいな。量の論理だ。そこから落ちてしまった人を救う安全網が、物質と精神の両面でしっかりと張られているとは言えそうにない。安定した社会の制度であるためには、少なくとも二本の道がいるだろう。一本だけだと不安定だ。バイパスみたいなのがないと、長い目で見たら行き詰まると予測することができる。経済の量の論理しかないがために、格差が開いてゆく。どんどん社会の中の不満という圧が高まってしまっていて、いつ爆発するかわからない。そうしたところもあるかもしれない。