火中の栗を拾いにゆく

 国会でとりざたされている問題をじかに問いただす。森◯学園の不正な土地の取得をめぐるスキャンダルだ。これについて、園長である籠池泰典氏から、ジャーナリストの菅野完氏が直接話を聞きとることに成功した。菅野氏は、火中の栗を果敢にも拾いに行ったことになる。大手報道機関が動きづらいところを、機動力をもってして芯となる籠池氏ににじかに向かっていったわけだろうか。

 インタビューのなかで、籠池氏は、自由民主党安倍晋三首相が、学園にたいして 100万円の寄付をしたと述べているようだ。これは、首相が直接に寄付したのではなく、間接的な手段による。首相夫人である昭恵氏が、総理からと言ってお金を手渡した。領収証を求めると、昭恵氏は言葉をにごして断ったという。この証言は、籠池氏がやけになり、虚言をばらまいているという見かたもとられている。言うことの信ぴょう性が疑われている。

 しかし、はたして籠池氏だけが虚言の癖をもっているのだろうか。というのも、あえて言うけど、安倍首相も虚言の癖をもっていはしないだろうか。とこのように言ってしまうと、支持する人から批判を受けるかもしれない。そのおそれはあるのだけど、籠池氏を虚言的だと見なすのなら、安倍首相にもまたその癖があると見ないと、公正であるとは言いがたい。権力者が嘘をついていないと見なすのはいかがなものか。これまではともかくとして、この件にかんしては、安倍首相が嘘をついていない可能性がゼロではないのもあるわけだけど。

 個人的な勝手な推測なので、まちがっているおそれがいなめない。そうした断りをつけておいて、このような可能性があるのかなという気がする。安倍首相は、学園との関わりを国会の答弁で否定したけど、これは首相が思いきってばくちを打ったのではないか。そのばくちには自信があった。証拠は隠してあるし、あっても状況証拠しかない。法の網の目もかいくぐっている。野党はいま弱いから、こちらが強気に出ればどうせ攻めきれない。報道機関にも、あらかじめそれとなく圧力はかけてある。

 学園との関わりを否定することで、籠池氏にたいして、間接的なメッセージを送ったのもある。ちゃんと口を閉じておいてね、という。もし少しでも口を割れば、他人も自分もやっかいごとに巻きこまれ、損をするのだよ、ということだ。よいことは何もない。いましばしの辛抱だ。籠池氏は、首相の意図を正しく忖度することをのぞまれた。保守という、志を同じくする仲間うちでもあるから、その結束は信じるに値する。

 籠池氏は、首相が送った間接的なメッセージに気づいたのかどうなのかは分からない。いや、そもそもそんなメッセージなど無かったとも言えるかもしれない。それはともかく、籠池氏は空気を読まないで、プロメテウス行動のような、権力側の期待を裏切る言動を徐々にはじめた。ゆとりがなくなり、せっぱ詰まったせいもあるだろうか。プロメテウス行動とは、予測に反した不規則な振るまいをさす。子どもにしばしば見られる。そうしたわけで、権力側としてはあわてふためいてしまっている。まさか期待を裏切るようなことをするとは思ってもみなかったわけだ。

 秩序には、犠牲がつきものだ。しかし、もし自分が犠牲の当事者にされるのだとしたら、それで黙ってはいられない。ここにおいて、ゲーム理論でいわれる囚人のジレンマ状況が生じる。利害がぶつかり合う。もし自分が(比喩的に)相手から殴られるのだとしたら、自分も相手を殴らなければ、殴られ損ではないか。この損得勘定はそれほどまちがってはいない。自分が落とされるのなら、せめて相手もいっしょに道づれにしないことには、気がおさまらないだろう。戴冠と奪冠による、カーニヴァル理論がおきる。偽王は王位を奪われる。殺される王の主題だ。冬である偽王を殺すことで、春を呼びこむ。宇宙が更新される。

 こんなふうに思い浮かべてみた。真相ははっきりとは分からない。たんに籠池氏が虚言の癖の持ち主で、安倍首相は嘘をついていず、困惑しているというおそれもある。これが正しいのだとすると、籠池氏の虚言に踊らされている人間の一人なのが自分であることはまちがいない。踊る阿呆といったところだろう。そのうえで、籠池氏を虚言の癖の持ち主とするのは、安倍首相がしばしば批判するような、印象操作のおそれもあるのかな、なんていう気がしないでもない。籠池氏をかばって、首相を批判することになる面があるが、これは、菅野氏の戦略でもあるという。公と私であれば、私の側に立つというのは、とくに不自然なことではない。