自然であるべきか、反自然であるべきか

 日本は自然の風土に恵まれている。人間と自然とがおのずと調和する。このようなとらえ方ができる。どちらかというとこれは性善説のような見かたといえそうだ。しかし、こうした見かたをとってしまうと、とり逃してしまうものもある。それは、性悪説的な観点である。

 自然とは、かならずしも人間にやさしいものではない。天災なんかの災害をとり上げればそういえるだろう。自然は厳しく、いっぽう人間社会は温かい。そんな対比もできなくはない。荒ぶる力をもっているのが自然である。そうはいっても、天災は忘れた頃にやってくるだとか、のど元過ぎれば熱さを忘れる、なんていうふうにも言われてはいるが。経験を風化させてしまうのはまずいかもしれない。

 自然と反自然というのでいえば、自然のもつ負の力を手なづけてできあがったものが、反自然としての制度である。そうした制度は、かならずしも万人から価値を認められるとはかぎらない。なぜなら、反自然であるためだろう。こうして、反(アンチ)にたいする、反々(アンチ・アンチ)のあり方が生じてくる。反々というのは、反にたいする反だから、どのみち人為ではあるだろう。

 反自然とは、ほんらいは自然の荒ぶる力を封じるためのものだといえる。しかし封じられたとはいえ、その命令に大人しく従うのではなくて、甘いささやきをもってある人を惹きつけようとする。その声は、生命価値を軽んじるようにとささやく。それに惹きつけられた人は、自然を荒ぶる力ではなく調和として見なす。そして反自然としての制度を、調和を乱す元凶だとして見てしまう。そこに価値の転倒がおきる。

 生命価値をいっけんすると大事に見なしているようでも、そこには逆説がはたらく。国民の生命を守るために、迫りくる他国からの外敵の脅威に打ち勝てるように備えないとならない。たしかに備えは必要だろう。しかし、国の防備がまるでなく、丸腰だとか無防備だと見なすのは正しいとはいえない。それは危機を過度にあおるための詭弁だと言わざるをえないだろう。

 科学技術の面で見れば、いっけんするとそれは生命価値を保つかのようにはたらく。しかし、国の人口は超少子高齢社会によって減りだしている。原子力発電などの科学技術は、自然災害の脅威の前では、確実に安全であるとはいいがたい。そうした破局がもしおこれば、生命価値がいちじるしく損なわれてしまう。それにもかかわらず、危険な技術から手を切るという大胆な決断は下しづらい。それはなぜかというと、一つには、われわれの生命が、質ではなく、量としてのみ計られてしまっているせいだろう。経済による同質性の論理だ。

 何をもってして合理的だと見なすのかは一概には言えないが、あるていどの反自然さによる規律を出発点とするのがよいだろう。仮説にすぎないが、万人がお互いに争い合うものとして見る自然状態の見かたもとられている。これを絶対視することはできないが、自然の野蛮さというのは無視することができない。完全な自然における調和という性善説をとるのは、したがって非合理であると見なせるだろう。

 自然を、あたかも調和を与えてくれるような性善説として見なしてしまうのは、かならずしも正しくはない。それは疎外論のモデルを呼びおこし、専制主義につながりかねない危うさがある。これは、精神分析学における無意識の概念が、ほんらいは悪いものだけど、逆によいものとして見なされてしまうことがあるのに少し似ているかもしれない。主体が気づかぬうちに無意識にそそのかされてしまっている、なんていうふうに使われる。しかしこれは、文脈を 180度変えてしまって、意識を悪として、無意識を(自然なるものとして)善とすることもできなくはない。

 中国の道教では、無為自然がよしとされる。人為的なものはなるべく無いほうがよい。そうした発想も、かならずしも間違っているとはいえそうにない。ただ、自然をかりに直接性とすることができれば、そうした直接性はロマン的な幻想であるおそれがある。たとえば人間は、言語という人工的で物質的なものを介してしか意思疎通ができない。これは間接的なありようだ。

 純粋で調和をもたらす自然というとらえ方は、直接性のあらわれであり、気をつけたほうがよいと言えそうである。そうはいっても、不自然なものに耐えてゆくのがよいのかというと、それもまた一概には言い切れない。もしかしたら、かぎりなく人為的な制度をなくして、シンプルにして自然であるようにしたほうが、うまくゆくようになるという可能性も捨てきれない。

 資本主義による拡大(蓄積)再生産の肥大化がすすむと危うい。地球上の人間や自然がもつ過剰さを処理するためには、どこかで蓄積したものを手ばなして蕩尽することがいる。そのようなことが行われないと、あやまった自然さの観念ができあがり、それをとり戻そうとして、悲劇的な破壊活動がおこなわれてしまうこともありえる。あるべき自然さへの回帰の動きには、帰結を無視するような、よからぬ破壊につながってしまう面もありそうだ。