漢字と政治的正しさ

 嫁という字は、あらためて見ると差別的だなと感じた。漢字の成り立ちが、文化的性の押しつけになっている。それで、熟語で転嫁というのがあるけど、これもおかしいなという気がした。使われ方としては、消費税の増税分を商品の価格に転嫁する、なんていうふうなのがある。増税は消費者にとってはいやなものだけど、役人や政治家にとっては自分たちの天下の維持につながる。そんな勘ぐりもできるだろうか。

 問題があるとはいえ、姑の精神みたいにして、いちいち漢字や熟語の非をあげつらってみても、そこまで生産的ではないかもしれない。ともすると、重箱の隅をつつくみたいになってしまう。それに、悪意があって使うのではなく、無自覚なのだとしたら、とりたててそれを責めてもしかたがない。言葉もそうだが、それと同じかまたはそれ以上にじっさいの社会のありかたが変わらないといけないだろう。どちらを先に改めるかについては、意見が分かれるところだ。またはそのままでよいという人もいるかもしれない。

 性のちがいについての、言葉の使い方や成り立ちの是非というのは、政治的正しさ(ポリティカル・コレクトネス)の範ちゅうに入りそうだ。政治的正しさの一方的な押しつけはおかしい、なんていう声もあげられてはいる。しかし、漢字や熟語における性のあらわし方は、明らかに偏っていることはたしかだ。これに関しては、今の時代にそぐうように、中立的なものができたらよさそうである。性的少数者の方への顧慮(こりょ)をすることもいる。

 政治的正しさのつねとしては、たしかに、いくら正しい(または間違い)といっても、言葉狩りの行きすぎのようになってしまうと、それはそれでやりすぎかもしれない。へたをすると正義の過剰になる。言葉は、使う人の自由や好みというのがあるのも無視できない。あと、自分をへりくだるようにすることで、ものごとを丸くおさめるという知恵もある。自分以外の人を立てるわけだ。それを全てよくないことだとするわけにはゆかないだろう。

 選択の点にかんしては微妙(デリケート)な面がある。本人の意思でふるまうとはいえ、偏った選好(選択と好み)が形づくられてしまうという指摘ができなくもない。社会があらかじめ偏っているためだ。これは、ある特定のイデオロギーからの呼びかけに応じてしまうかどうかの要素が関わる。社会や国家が、こうせよだとかこうあるのが正しいと言うとしても、その干渉はほんらいはまったく無いかもしくは最小限でないとならない。かつ、そこから個人が好きなように逃れられるような自由も十分にあるべきだろう。犯罪なんかだとまた別な話になりそうだが、そうでないものについては、柔軟なほうがよい。自由主義からすると、そのように言えそうだ。