事実からなのか、価値からなのか

 価値から事実をみちびく。これはまちがいであり、事実から価値をみちびかないといけない。科学なんかの見かたに立てば、そういうことが言えるのだろうか。しかし、かりに価値から事実をみちびいてしまうのが非科学的だとしても、それは多くの人がしばしばおこなってしまうものだと言えそうだ。だからとりたてて取り上げることはいらないかもしれない。

 言語の行為には、事実(コンスタティブ)と執行(パフォーマティブ)の2つの面があるといわれる。後者の執行とは、ある発言や文のひとまとまりのなかで、あるいはそれによって、何かをなそうとするものだ。英語の前置詞でいうと、in(の中で)とか by(によって)に当てはまるそうだ。

 執行の面があることによって、事実とのずれがおきる。内面性ができあがる。しかし、それだからすなわち間違いだとはなりづらい。そうはいっても、完全に事実と切り離されてしまうようだと、極端であることはまちがいないだろう。なにか特殊な受けとり方をしないかぎり、広く受け入れられそうにはない。

 思想家の吉本隆明氏は、言語において、指示表出と自己表出があると説いたそうだ。これは、意味と価値として言うことができるという。それでいうと、意味だけではなく価値の観点というのが小さくない意味をもつ。そうした価値の面を切り捨ててしまって、意味だけによっていればよいのかというと、そうとは言い切れない。かといって、価値だけになり、意味を欠いてしまうようでは極端であるからちょっとまずい。

 自己表出として、自分の目や耳でものをとらえて、それをもとにして何かを外にあらわす。そうしたふうであれば、価値から出発しているといってもさしつかえない。自分が何を価値としているのかを抜きにはできないところがある。したがって、価値から事実をみちびくことは、とくに珍しいことではない。

 価値から出発するのは、転倒しているといえばそうとも言えるのだろうけど、人間の世界はそこまで整然とはしていなく、一皮めくれば雑然としていると見ることができる。万人が承認をかけて血みどろに争いあう、自然状態の野蛮さがすぐそばで顔をのぞかせている。そういったわけで、事実というよりも、価値づけ(判断)またはモラル(何々であるべき)に引っぱられてしまうところがあるのだろう。

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