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痛みと歴史

 近現代の歴史については、色々な見かたがとられている。左と右があるとして、その両方の顔を立てるかたちで、真ん中あたりに落ち着かせる。現状は、こんな感じになってしまっているのかなと勝手に推測している。おもうに、このあいだをとるという落ち着かせ方は、もしそうなっているのだとすると、あまり望ましいことではない。悪い意味で折衷してしまっている。

 ごまかしではなくて、ほんとうの歴史であるべきだ。もしそのように望むのであれば、自分たちに都合のよい見かただけをよしとするのを捨てなければならないだろう。自分たちに都合の悪いことも受け入れる覚悟をするのがのぞましい。自分たちに都合が悪いことがあっても、それをきちんと受け入れられる覚悟がないのであれば、ほんとうの歴史などそもそも求めるべきではないだろう。痛みなくして得るものなし(no pain,no gain)、という面はありそうだ。痛みには覚醒のきっかけがある。陶酔を求めるのなら、それを避けるしかない。

 どのみち、神さまではないのだから、完全なありようを知ることはできづらい。人間のやることであるから、不完全にならざるをえない。だから、なるべく多様な意見があり、それらを総体して見たほうがよいかもしれない。閉じているのではなくて、開いているようなあんばいだ。

 純粋な善と、純粋な悪として、両極端の可能性がとれる。極端なことは、基本としては現実的でないと見たほうがよい。そのうえで、かりに純粋な善であったとしても、もしそうであればあまり問題はない。意識しなくてもよいわけだ。なぜなら、どんなに悪く言われようとも、ほんとうは善であったのだから、馬耳東風でもかまわないからである。このさい、ほんとうは善であるというのに力点がかかっている。

 問題なのは、純粋な悪であった場合だろう。もし、純粋な悪であったとして、それを善にすり替えてしまうとすれば、このすり替え自体が悪の上塗りだとは言えはしないだろうか。この悪の上塗りを最大限に問題視することはできる。自己正当化するのを不当だと見なす。たとえ微小ではあれ、悪であったおそれをこそ、意識するべきだ。

 ほんとうは純粋な善であったさいには、もしそれが悪く言われたとしても、排除されるのは自分である。自分が排除されることは、(逆説的ではあるが)自分が正しいことの裏返しの証明にならなくもない。善とか正しいことは、必ずしも広く世に受け入れられるとはかぎらないものだろう。しばしば辺境に追いやられてしまうことも少なくない。真実はえてして断片や細部に宿る。

 いっぽう、ほんとうは純粋な悪であったさいには、それを歪曲したさいに排除されるのは自分ではなく他者だ。他者を排除してしまうのは、暴力を他者にふるうことにつながる。否定的な契機の隠ぺいだ。だから、その媒介である他者を何とかして救い出さないとならない。表に明るみに出さないといけない。そういうふうに見ることはできないだろうか。

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