次元の食い違い

 頭のよさには、いろいろな尺度がありえる。そう言ってしまうと、頭のよさは人それぞれ、なんていうことになる。別に、そのように言いたいわけではない。たとえば、数学が飛び抜けてできる人なんかは、さぞ頭がよいのだろうなあというふうに感じる。そうした能力がないので、うらやましい。うらやんでもとくに意味はないわけだけど。

 頭がよいというのには、何かが飛び抜けてできるという、加算的な見かたができる。人よりも何かが突出してこなせるような、特別な能力をもっている。そうした人には、権威が生じることがある。専門性をもっていれば、そうした権威が生じるのは自然である。ただ、両面価値的なものであることはいなめず、ときには主張を疑って受けとることもいるだろう。

 頭がよいというのには、加算的でない見かたも成り立つ。これは、何かが飛び抜けてできるというのではない。凸ではない。おもうに、何かが飛び抜けてできたり、突出して何かができる人は、その反面で、何か肝心なものが欠けていることもあるのではないか。凹みたいなものを持っているわけである。

 凹であるものの一つに、陰謀理論なんかがある。というのも、陰謀論を当然の前提に話をされると、違和感を感じざるをえないところがある。すごい高度な凸の話が、陰謀論という凹を前提にしているとなると、一体どういうことなんだ、なんていうふうな気がしなくもない。次元が整っていず、混乱しているようなあんばいだ。

 陰謀論が凹だとして、負の価値と見なすのは、当人にとっては通ずるものではない。それを現実として信じているのなら、少なくともその人にとっては現実味がある。ただ、そうした確証をときには相対化できればのぞましい。しかし、あまり端がとやかく言うことでもないかもしれない。くわえて、お前はどうなんだと言われれば、自分は例外だとは言い切れそうにないのもある。多かれ少なかれ、時代の迷信に染まっている面はあるだろう。早とちりで情報をうのみにしてしまうことがあるのもたしかだ。

 陰謀論が凹だというのは、わりと次元が低いことだという気がするからだ。そのため、まずはそこを解決したほうがすっきりする。しかし、凹を根拠や前提にして、そこから基礎づけて凸ができあがっていることもある。そのようになっているのであれば、まず基礎づけをいったん取りやめることができればよい。もっとも、取りやめてしまうと、方法的な確実さが失われてしまう。しかし一方で、現実の複雑さや複合性を汲みとることができる利点が生じる。

 実存主義でいえば、本質は存在に先立つのか、それとも実存は本質に先立つのかのちがいがある。この本質の部分には、たとえば国家だとか民族だとか、ある特定の集団や組織なんかが当てはめられるわけだ。そうしたなかで、ある集団や組織なんかを、一枚岩のようにして見てしまうと、逆に本質を見誤ることもありえる。少なくとも、仮説であるとしたほうが無難だろう。

 本質というのは、ポストモダンでいわれるように、接合してしまうこともできる。英語の接続詞の and を用いるようにして、何々と、何々と、というふうに後ろにくっつけるのである。そうすれば、意志というのを薄めてゆくことができる。敵は、われわれをおとしめようとする意志をもつものだけど、接合で見ていって、色々な要素をくっつけてしまえば、必ずしも敵とはいえなくなる。