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道義国家の内実

 道義国家をめざす。稲田朋美防衛相はこうしたことを提唱している。この道義国家とか道義大国というのは、典型的な修辞(レトリック)だという気がする。なんとなく、こうした道義みたいなのを国家に形容詞としてつなげれば、さもそれが備わっているかのような印象がおきなくもない。でも、肝心の内実はどうかという点では、心もとないようだ。効果が先走ってしまっている。

 道義国家をめざすのはいいだろうけど、それにはハードルが高いだろう。たとえば近隣諸国との歴史認識のもめごとにおいても、ひと筋縄では解決はできそうにない。もし道義国家であるのなら、それにふさわしいふるまいをしなければならないのはたしかだ。しかし現実にそうしたふるまいができているのかというと、色んな要因があって(全体としては)まだできていないのが現状である。相手の文脈を理解するという段にはいたっていない。

 道義国家をめざすというのと、とり戻すというのとがごっちゃになっているふしもありそうだ。この混同はちょっと変である。とり戻すというと、あたかも過去にそうしたものがあったかのようだ。しかしそれは想像の中にしかないものだろう。想像の中にしかない、なんてきっぱりと言い切ってしまうのは、乱暴に響くかもしれない。しかし、建て前にあったものと、じっさいにどうだったのかというのを、とりちがえてはまずい気がするのだ。

 道義国家をめざすのであれば、下降史観や疎外論のモデルを相対化するべきだ。下降史観というのは、今はだめな世の中で、かつては善きありようがあった、と見なすものである。しかしこうした見かたは現実的とはいえそうにない。戦前や戦中と現在(戦後)を比べてみれば、明らかに改善したり進歩したりした面がある。そこをふまえたほうが合理的だろう。戦後、だめになったところもあるかもしれないが、その一部を全体視して、すべてがだめだとするのは合理的ではない。

 疎外論のモデルでは、今われわれは疎外されているものとして見なす。そして、しかるべき本来のありようがあり、そこに到れれば幸せになるとする。本来こうなんだというのは、今がだめなんだというのと結びつきやすい。しかしそれはあくまでも、本来性と現実性とのつり合いのなかで見ないとならない。そして、もし本来性が現実になったとして、それが本当にのぞましいものなのかどうかはよくよく吟味することがいる。思い描いていたのとはちがい、あてが外れたなんていう例は、枚挙にいとまがない。

 道義国家だとか道義大国なんていう大きな言葉は、あまり適当なものだとは思えない。徳治主義みたいである。徳をもつ治者がいて、その人が国を治めるという発想は、ちょっと前近代的な気がする。西洋ではマキャベリが、そうした人のかがみとなるような君主を、虚偽(イデオロギー)だとして批判していたようである。

 修辞もよいけど、あまりその効果に偏りすぎると、虚構になりかねない。政治において、不確実な先行きから逃れたいばかりに、権威に酔ってしまうようになるのはあやうい。そこはできるだけ自覚的でありたいものだという気がする。虚無の現実に耐えられず、見せかけの価値なり目標に慰めを求めてしまう弱さがあるのを、認知することもいるだろう。

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