参考人を呼ぶ

 違法性がないから、参考人招致はいらない。与党である自由民主党の菅官房長官はこのような発言をしている。しかし、そもそもその違法かどうかを調べるためにこそ、国会に参考人を招致するのがいるのだと指摘されている。はじめから違法とわかっていれば、関係者が逮捕なり何なりされるからである。

 自民党参考人の招致を拒んでいるわけだけど、これは二律背反のような気がする。拒むというのは、呼んだらやばいからであると察せられる。腹いせみたいな形で、参考人になにを喋られるかわかったものではない。そこは統制がききづらい。

 もし自民党になんの非もなく、なんの落ち度もないのであれば、すみやかに野党の求めに応じて、身の潔白を晴らすのがふさわしい。それで堂々と胸を張ればすむ。こういう理屈をもち出されると、返す言葉がちょっと思い浮かびづらい。たしかにそうだよなという気がする。

 参考人として予定されている学校経営者の園長は民間人だから、国会に呼ぶのは慎重にしないとならない。この理由づけもちょっとおかしい。というのも、たしかに園長は民間人ではあるが、スキャンダルとしてテレビなどの大手報道媒体で連日のようにしてとり上げられてしまっているからだ。くわえて、公共の土地やお金がからんでいるので、そのスキャンダルの真相を解明するためにも、参考人に招致するのは公益にかなう面がある。

 疑わしきは罰せずという、無罪推定の原則があるわけだけど、これは弱者である一般人には当てはまるが、権力の中枢にいる者にはそのままは当てはまらないだろう。むしろ性悪説で見たほうがよいくらいで、そのために強者である権力者をしばるための法があるとも言える。やることなすことの、何から何まで疑うべきだとはいえないが、権力の中枢にかぎっていえば、有罪推定の前提に立つことも、ことがことであれば許されるだろう。

 聞き分けがよいのは、相手への信頼があるからである。主要価値を共有している。しかし、いったん不信が芽ばえれば、それまでの信念志向性がゆらぐ。たやすく闘争になってしまう。自分が犠牲として否定されて、それでもまだ信じてついてゆくほど人は酔狂ではないだろう。目が覚めるはずだ。

 自分のなかにある信念というのは、一貫性をもつ。その一貫性が崩れるのを人はしばしば嫌うものである。そうはいっても、それがあまりにもかたくなで硬直なものであればあやうい。思いこみとして観念をもつのはよいとして、できるだけそれが絶対化されず、相対化されるのがのぞましい。絶対化されてしまうと、教義(ドグマ)となる。

 あるものごとを評価するにしても、そこには心象というのが大きくはたらく。心象というのはとてもあやふやなものであり、瞬間ごとの気分のごときものだ。ふわふわした気みたいなものだ。その移り気な心象を、物として固定してしまうのが、否定的な観念である。こうして物象化されてしまう。相手を物象化(対象化)することで反作用がおき、自分もまた同じように物と化す。