慣行をやぶる正当性

 最高裁判所の判事を決める。そのさい、これまでは、最高裁の内部からの意見をふまえて、それを尊重するようにしていたという。そのようにして今までやってきたところに、そのやり方を変えたのが、いまの安倍晋三首相がひきいる政権であるといわれる。しかし、いまの安倍政権が必ずしも悪いかというと、そうとも言い切れない。

 そもそも制度としては、最高裁の判事を決めるのにおいて、内閣が人事を決めることになっている。だから制度的な問題はなにもない。くわえて、内閣総理大臣は権力をもち、その権力をじっさいに用いるさいの主たるものが、人事なのだというのだ。

 まずひとつ引っかかるのは、はたして法律の専門家による集団からの声をないがしろにしてもよいのかという点がありそうだ。たとえ選挙で選ばれていないにせよ、最高裁という専門家による集団からの声というのは十分に尊重するに値するところがある。

 そうはいっても、やはり選挙で選ばれたという事実は大きい。どちらを優先するべきかとなれば、選挙で選ばれていないよりも、選ばれたほうにより重みがある。民意がそこに反映されているというふうに見なせる。専門家の声よりも、民衆からの声のほうがより大事だというわけだ。

 そうして民衆からの声を重んじるのもわからなくはない。ただ、疑問符をつけられることもまたたしかだ。ひとつには、選挙で選ばれたとはいえ、あくまでも代理としてあるにすぎない。代理する役をになう代議士は、けっして民衆の意をそのままくみ取る透明な媒体ではないだろう。

 選挙で選ばれたから、すなわち民衆からのお墨付きを得たのだとは言い切れない。というのも、選挙において、しばしば重要な争点が隠されてしまうのがあるからだ。そうした争点隠しは横行している。くわえて、大衆迎合においては、長いスパンのことよりも、目先の利益を追ってしまいやすい。

 国の長となる人が、国民から直接に選ばれるのではない点もある。そのため、国の長となった人が、国民からの手ばなしの信任を得たとして、何でも自分の意のままにやろうとするのはあまりよいことではない。専制主義になりかねないあやうさもある。

 そうしたわけで、保守的な観点からすると、いままでとられてきた慣行を守るほうがよさそうだ。そうではなく、守られてきた慣行をだしぬけに止めてしまったり破ったりしてしまうようではよくない。しかし、慣行は何が何でも守られねばならないとも言えないだろう。原則にはない不文律の慣行は、もし原則からかけ離れすぎてしまっていれば、そこに問題がないわけではない。しかし、かといってまったく慣行が無意味だともいえないのもたしかだ。

 少なくとも、何らかの意味があるから慣行が守られていると見るのが妥当ではないか。それを、まったく無意味であるとか害があるとするのは乱暴である。もしかりに、慣行をやめたり破ったりするとしても、それは十分に国民に説明をつくして、国民からの納得が得られてからやるべきだろう。あるいは、国会で与野党により議論をするなどがのぞましい。そうした過程がとられていないのであれば、他者との対話を著しく欠いていると言わざるをえない。