素読の教育

 素読は、教育の方法としてはどうなのかな。そこまで過剰な期待をもつほどのものではないような気がする。声に出して音読をすることで、脳が刺激されるから、脳の活性化にはつながりそうだ。目だけでなく、ほかの五感を使うのは有効だろう。声を出すから呼吸法にもなる。しかし、それ以上の何かがあるとはあまり言えそうにない。それ以上のところにふみこむと、少し非科学的になってしまいそうでもある。

 素読をすることで、いままで無気力だった人が気力が出たり、ひきこもり気味だった人が積極的になった、なんていうこともあるそうだ。そうした例があるのはよいことである。しかし、素読にかぎらず、きっかけという点ではたとえば散歩なんかでもよいのではないか。これをしてこうなりました、なんていう体験談は、テレビのコマーシャルなんかを見ても、けっこうありふれたものだし。

 せっかくなら、いまの日本国憲法素読するなんていうのもありかも。これは洗脳というのではなくて、理にかなっているところもなくはない。というのも、先の大戦において、当時の日本が国としていかに間違ったことをしてしまったのか、という失敗の反省がおりこまれているのがいまの憲法だとされている。

 死の恐怖にさらされないと、なかなか理性や反省にめざめることはできづらい。なにか危機がおきたときに、まっさきに犠牲になるのはたいてい弱者である。そのため、上の者である権力者なんかは、とりわけ理性や反省にめざめづらいきらいがいなめない。想像や観念なんかをもとにした虚栄心でつっ走り、破滅にまでつき進む。

 そうした過去の大きな失敗の経験から、たしかな教訓を得るのが、いまの人間のできるせめてものことのひとつである。追憶と哀悼の作業だ。それは、あくまで理想ではあるが、敵なき世界をつくることだろう。いたずらな友敵論のわなにおちいらないようにする。くわえて、とくに気をつけなければいけないのは、言語による記号的な偶像(イドラ)をもてあそぶことである。ただし、そうしたことを、押しつけのような形で無理強いしてしまうと、それはそれでまずいこともたしかだ。