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対案なき反論についての解釈の試み

 いまあるあり方に、いちゃもんをつける。それはあくまでも、何か対案(代案)となるものを持っている者だけがやってよいことだ。そうしたものを何も持たずに、ただ現状にけちをつけるのでは、ほんの最低限の義務すらも果たしていないのでまことにけしからん。勤勉でない。手抜きであり、ずぼらだ。こういった意見が言える。しかしこれだと、弁証法の観点から見ると、正(テーゼ)すなわち合となってしまい、途中の過程である反(アンチ・テーゼ)に欠けることになりかねない。

 いま正とされていることにたいして、反であるアンチ・テーゼを定立することがいる。そうした否定を媒介として、止揚(アウフヘーベン)されることにつながる。であるから、たとえ対案となるものがなかったとしても、いまある正にたいする反としてのテーゼは、率先して出してゆくことがのぞましい。そこにいちおう理があると思うのだ。

 なぜ、いまある正にたいする反としてのテーゼを出すことが、やましいことのように言われてしまうのか。それは、生産中心主義からくる発想だろう。この発想においては、父性原理がはたらく。その中において、意味が一つに固定されて閉じてしまう。しかし、じっさいに閉じているのではなくて、あくまでもそう見せかけているにすぎない。つまり、(いまある正にたいする)反であるテーゼを、抹消することで成り立っているのだ。

 反としてのアンチ・テーゼを欠いた正というのは、支配や抑圧としてはたらいてしまいそうである。もっとも、現実である正を、頭ごなしに否定するのはよくはない。とはいえ、正すなわち合のようになってしまうと、否定の契機を欠く。あたかも、無矛盾のようになってしまう。しかし、こうした無矛盾の前提というのは、疑うことが可能だ。いまの現実にたいする強い否定はともかく、弱い否定というのはないとならない。

 現実というのは、正と反といったようにして、つねに 2面的(パラレル)に見たほうがよいと感じる。その 2つの面の、どちらか一方だけが正しいというのではない。おたがいに関係して対立し合うことによって、意味のようなものが、そのはざまに結果として浮かび上がってくる。葛藤がおきることで、ドラマのようになる。ドラマというと、ちょっと不謹慎かもしれないけど。

 正は、反を外部につくり出す。しかし、一見するとそのように見えるだけで、じっさいには、反なくして正もない。正というのは単一ではなく複数あると見なせる。そのようにして相対化することが可能である。閉じたありかただと、正にたいする反は、何かよこしまな悪のようなものに映ってしまう。しかし、もともとが、反というのは、正がその内部においてつくり出したものである。何か原則があってはじめて、そこからの逸脱がつくられる、といったようなものだろうか。

 ここまできて、あらためて見てみると、弁証法の観点を当然のこととしてしまいすぎているようだ。弁証法というのは正と反と合の過程をふむものであり、それ自体が全体化の傾向をもっている。下手をすると、たやすく抑圧的にはたらく。その点にたいする自覚が足りなかったと感じている。1か 0かといったデジタルな単純弁証法を、素朴に振りまわすべきではない。

 正しいものはあくまでも正しいのだから、正すなわち合となったとしても、それでよいではないか。そうした見かたもとることができる。たしかに、そうしてやっていったほうが合理的になることも、ものによってはなくはない。みんなの利害がそれほど対立していないものであれば、あるていど理にかなっているし、経済的である。そこは、わりあい冷静な理性の領域によっている。しかし、それ以外の、情念(感情)とか意志の領域も大きいから、やっかいである。意志なんかがからむと、陰謀理論が入りこんでしまいやすい。

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