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圧のかかり方のちがい

 内に抱える圧をふまえるのもいる。この圧というのがいわば入力のようなものである。そして、そこから出力としての爆発がおきる。爆発の強さというのは、かかっている圧の強さに比例する。なので、爆発が強いということは、圧が強いからであることが察せられる。

 入力である圧は原因であり、出力である爆発は結果である。結果だけを見ることもできるけど、原因もふまえておくことで、より総体的にとらえることができるようになる。原因と結果というのは、必ずしも疑いえないものではない。たんなる一つの解釈にすぎないものでもある。そのうえで、たんに結果だけを見て断じるよりは、いくらかはましになる。

 たとえ圧がかかっているとはいえ、それは必ずしも作為的なものとはかぎらない。作為的なものでないのなら、それは構造的暴力にあたる。しかし、そうしたばく然とした、つかみ所のないことでは、なかなか気がおさまらない。何か特定のものに原因を押しつけることで、少しでも気が晴れたりうさが晴れたりするものである。

 一方的に責任を押しつけられるほうにとって見れば、たまったものではないこともたしかである。いわれのないことについては、しっかりと反論するべきだろう。それと同時に、歴史の流れのなかで、どちらの側が弱者であったのかを見ることもいる。2者関係において、時系列による分析によって、力関係が見えてくることもあるのはたしかだ。

 力関係というのは、対等なものではなく、どちらかが有利(不利)であることが多い。偶然の、運(不運)による要素もかかわってくる。これまでの流れのなかで、不利または不運であったものにたいして着目するのが、本質的な見かたに少しでも近づくためにはいりそうだ。そのさい、自分たちを不利または不運としてしまうと、自己正当化につながってしまうので注意することがいる。

 誰にだって、苦しい圧というのは、多かれ少なかれ外側からかかっている。しかし、それでみなが同じ条件および境遇だとするわけにはゆかない。それだと、下手をすると詭弁になってしまうからである。そうした、水かけ論のような平等(対等)の見地に立つのではなくて、不平等であるという現実の見地から出発するのも手だろう。

 心象というのは、言語によって形づくられるものであるから、固定化するのだけでなく、解体することもできる可能性がある。それには、方法的な確実さや確証を手放すことがいるわけだけど。象徴というのは、たいてい過程だとか部分だとかを切り捨ててしまっていることが多いという。そうした切り捨てられたところを改めてふまえてみることで、より適切な象徴のやりとりが、互いにできるようになることもありえないことではない。

 後方効果(バックワード・エフェクト)といって、うしろに遡及的にはたらくものもあるのだそうだ。これは、演繹ではなくて帰納的なありかたである。はじめにこうだと思っていたものが、ある小さな事実でもいいんだけど、それを知ることで、がらっと見えかたが変わったりする。そういう経験もたまにはなくはないと思うんだけど、これは後方へ遡及して効果がもたらされた結果によって、全体が変わったのである。このような、全体と部分との循環的な関わりも見すごせない。

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