幼稚園の教育

 大阪にある塚本幼稚園では、愛国主義や日本主義をよしとしているそうだ。それで、海外からも注目され、ロイターで記事にされている。海外の報道機関は、日本の右傾化の動きにたいする懸念を示している。戦前や戦中の思想に回帰するのではないかと危ぶまれているわけだ。

 とくに問題だなと思ったのが、幼稚園で歌われている歌の歌詞である。これは作詞家の秋元康氏がつくったものとされる。あからさまに批判されないように、できるだけ抽象的なふうな歌詞にはなっている。一点だけ、中盤にある、この国を信じてよかった、という箇所は、個人的にはいただけない。幼稚園児はすごく素直だから、この歌詞の内容をそのまま信じてしまいかねない。大人であれば、痛烈な皮肉だという受けとり方もできなくはないだろうが。

 教育勅語なんかをとり入れてしまっているのは、教育というよりも、全体主義的な教化であると言わざるをえない。おもて向きで教育だといいさえすれば、それで問題はないのだろうか。内容(テクスト)というよりも、それが使われた歴史の文脈(コンテクスト)をふまえるのがいる。歴史の文脈を隠ぺいしてしまうことになったとして、それでも教育といえるのかは疑問だ。

 愛国主義や日本主義でなにが悪いのか。そのようにも言えるだろう。伝統を重んじるのはとくに悪いことではない。ただ、主義になってしまうのはちょっといかがなものかとは言える。ようするに、美談主義になっているのである。ここにはどうしても、虚偽的なイデオロギーが入りこまざるをえない。それにくわえて、崇高さをよしとするのにも気をつけたほうがよいだろう。これはロマン的なあり方にもとづく。必ずしも現実に根ざしているとは言いがたい。

 この幼稚園では、卒園した子どもが世間に潰されてしまいかねないとして、小学校の運営もするとして、そこで論語を教えるのだそうだ。論語は、そもそも中国から輸入したものだけど、それでもいいのかな。日本主義ではなくなってしまうわけだけど。それだと、頼るものが西洋から東洋(中国)に切り替わっただけのような気がする。

 大人がよいと思うような子どもにではなくて、そうしたのを突き破るような子どもに育つ。あえて出る杭となれ、が園のモットーの一つになっているようなんだけど、それは、大人のいだくのぞましさから、外れてゆくことでもあるのではないか。それは一様にではなく多様に発展することだ。剣道や茶道では、守破離といわれる教えがあるとされる。これをふまえれば、守だけにとどまるのは健全とはいえない。やがて破と離にも向かい、相対化して定点をもつべきだろう。

 戦後の、悪くいえば自虐史観とよばれるものには、父権主義(パターナリズム)的な面がなくはないだろう。押しつけということである。それをけしからんと言うのもわからないでもない。そうではあるけど、教育は、基本として、子どもが伸びたいほうに向かうのに任せるのが理想といえそうだ。まわりの大人は、幹をむりやり特定のほうへ向けようとするのではなく、邪魔な枝葉をすこし切ってやるくらいにとどめるのがよい。きれいごとではあるけど、そうした意見もあって、共感できるなと感じる。