退位の決めかた

 みんなで議論をして決めるのではない。密室で、非公開のなかで、少数の人が決めてしまう。そういうふうにして、天皇陛下の退位をめぐる決定が、自由民主党のなかでなされてしまっているのだという。この点について、自民党石破茂氏は待ったをかけて、疑問を呈している。一強多弱の今だからこそ、その一強の優位さの真に有効な使いかたが問われている。

 なぜ、みんなで決めるのでないやり方がされてしまうのかというと、ひとつには、自民党は必ずしも国民全体のほうを向いていないせいではないかという気がする。そうではなくて、自分たちの利益集団のほうに顔を向けていそうだ。これは日本会議をはじめとする保守系の人たちである。そうした、顔の見える組織票を重んじている。あくまでも邪推にすぎないけど、そういう気がしてならない。

 報道調査では、退位については、一代限りではなく恒久制度がのぞましいというのが多数を占める結果が出ているという。多数にのぼるから正しいとはかぎらないわけだけど、少なくとも多数にのぼる側の意をくんで十分に議論されないとならない。でないと、開かれたありようとはいえないだろう。有識者は、国民というよりも、政権のほうの意をより多くくんでしまっている。天皇陛下の意向と、それに共感する国民(の一部)とを、ともに軽んじてしまってよいものだろうか。

 石破氏は、集団のなかで活動している人にはめずらしく、嫌われる勇気があると感じた。あえて自分が不利になるにもかかわらず、ということだ。自分たちの利益集団となる組織票のほうへ顔を向けるのではなく、たとえ顔が見えづらくとも、国民全体のほうをなるべく向こうとする。こうした心がまえがいるのではないか。いまの自民党は、石破氏が隠れた否定的な媒介項になっていそうである。それを抹消したうえでまとまりが成り立っている。国防なんかについてはともかくとして、天皇陛下の退位の問題については、それがかいま見られるところがある。