機会と結果の平等

 平等というのは、機会平等のことである。結果については、格差があって当然だ。それが現実というものである。こうした意見があったのを見かけて、ちょっと首を傾げてしまった。たしかに、現実の秩序というのは、あるていどの差別が前提になっている。しかし、その差別はなんとか受け入れられる範囲内でないとならない。

 経済の格差なんかが深刻になっているいま、この問題を放置したままでよいとはとても言えそうにない。たとえ社会のなかで富が身近にあったとしても、そこにじっさいにアクセスできる人がごく限られてしまっている。そのもどかしさから豊かではない側のうっぷんが溜まっていってしまう。

 経済学者のフランク・ナイトは、資本主義はもはや公正なゲームとは言えるものではないと見なしていたという。資本主義において用いられているルールが、すべての人にとってふさわしいものではなくなっている。もともと資本主義では、資本の側が利潤を多く得るしかけになっている。それが自己目的化するわけだ。それにくわえて、偶然による運の要素が大きく左右してしまう。幸運であればよいが、もし不運であれば浮かばれない。

 経済学者のマルクスは、資本主義が必然的に革命をもたらすことを解明したのだという。資本主義においては、賃労働者は資本の側に組み入れられて資本化する。しかし、すべての労働者がそうして組み入れられるわけではない。なかには排除されてしまう人も出てくる。これが無産者によるプロレタリア化である。このプロレタリア化が進行すると、資本主義における亀裂が深刻になり、なんらかの変革を呼びこむ。そうした流れなのだという。

 機会平等だけあればそれでこと足りるとしてしまうのは、今ある格差をそのまま放置することにつながりかねない面がある。欺まんにならざるをえない。機会の平等はあくまでも形式的なものであり、それとは別に結果の平等もふまえることがいる。そうした実質的な平等についてを見ることが、わりと性急な課題になっている。世代のあいだや、また同世代内においても、不平等感が広がりすぎないようにする手だてが求められている。

 格差や不平等感が緊張であるとすると、それをどこかで解放しないといけないのかもしれない。ふだんは市場原理による等価性によってやりとりがされているわけだけど、それだけであると富の過剰な蓄積なんかが進んでゆく。この過剰さを処理するために、蕩尽することがいるのだという。あまり賛同は得られそうにはない(むしろひんしゅくを買いそうではある)が、こうした贈与による蕩尽というのが、ひいては国防および平和につながってくる。目には目を、では行かないありかたである。