人口を保つ

 人口を保つには、自然増と社会増の 2つがあるそうだ。このうち日本では、これまでの少子化対策の失敗もあり、自然増は無理である。とするとあとは社会増しかない。社会学者の上野千鶴子氏はインタビューでこのように述べていた。世界全体の排外主義の波をかぶってしまったために、日本では移民の導入は難しくなっているのだという。

 この上野氏の発言が、物議をかもしている。はじめから移民の受け入れをあきらめてしまってどうするのだ、というわけである。草の根的に受け入れに努力している人もいるので、そうした陰ながらの尽力に水をさしてしまいかねない。また、そもそも今の日本には、移民の人たちがすでに入ってきていて、労働力として貢献している現状もある。そこを無視するのはいかがなものかとも言えるそうだ。

 上野氏の発言をよく見てみると、移民の日本への受け入れについて難色を示すうえで、そこに大量のという言葉がついているのも見逃せない。とすると、少数の移民の受け入れには反対ではないということなのだろう。門戸を広く開けて、大量に受け入れることにたいして疑問を呈している。

 議論の展開として、まず前提となっているのが、日本は多文化共生主義をうまく行えない点がある。そして大量の移民を受け入れることもできづらい。ゆえに、結論として、みんなで貧しくなりつつ、富の分かち合いをしよう、という流れになっている。このさいの、みんなで貧しくなろうというのは、脱成長による定常経済みたいなのを指しているのかもしれない。

 上野氏の指摘は、移民の受け入れについての悲観論だろう。そして皮肉も少しだけ入っている。これは、楽観論や希望論にたいして冷や水を浴びせる形になってしまっている。しかし、この悲観論も、それはそれで将来になりうる可能性の一つではあるのではないか。ヘイトスピーチなんかがしばしば飛び交ういまの現状をふまえると、内向きで閉じたまま全体が縮んでゆくおそれもありえないことではなさそうだ。

 ヘイトスピーチということでいうと、異なものにたいする恐怖というのはけっして小さなものではないような気がする。その恐怖を克服するためには、けっこうな労力を要するのではないか。やせ我慢が一時的にできたとしても、あとで反動がきてしまうようだと、けっきょくは心を抑圧していただけにすぎない。そして、異なもののような、なにか対象をともなった恐怖だけではなく、ばく然とした内なる不安というものについても対処してゆかないとならない。

 いまは、自由主義(リベラリズム)がわりと叩かれがちで、保守的な動きが強くなってきている。保守による共同体主義では、多文化的なありかたをとると、極端には分離主義(アパルトヘイト)のような形に行き着いてしまうのだという。これはよくて共存にすぎず、多文化による共生のありかたとはとても言えない。その点をふまえても、共存をさらに超えた、多文化による共生とは、言うほど易しくはないのではないか。

 共存を寄生として排斥してしまうような言動も、ほうっておくとすぐにおきてしまう。こうした差別をどう乗り越えるのかが課題になりそうだ。日本では、私が抑圧されがちで、公が幅を利かせやすい。公の論理なんかが大手を振ってまかり通るところが目立つ。まだ、大戦の前や戦中における、領域としての公(滅私奉公)のありかたが残存しているせいだろう。一人ひとりの生を膨らませるというよりかは、それを削ってしまうような向きがある。

 政治は有権者による主権にもとづくものであり、その決定単位である主権についてをふまえると、血統の問題が生じてしまうという。血統とは科学的にいえば虚構かもしれないが、正統性を見いだすうえで、しつようにからんできてしまう要素ではないか。そうした負の面をふりきって、思いきって、開かれたありようにかじを切るのものぞましいとは思うんだけど、必ずしもスムーズには行かないかもしれない。

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