真実の真偽

 2016年を象徴する言葉としてポスト・トゥルース(post-truth)があったそうだ。これは真実を軽視することをさすものだという。それで思ったんだけど、なぜ一足とびに真実を軽視してしまうのだろうか、という点が少しだけ疑問である。真実とは、いわば神のみぞ知るようなものではないのだろうか。人間が知りうるものは、せいぜい事実の集積にすぎない。事実すらも、すべてを知ることはできない。もっている資源に限界があるためである。

 真実の軽視というのは、真実の重視のうら返しなのかもしれない。これは一神教のあり方からくるものでもあるのだろうか。日本だと、一神教というよりはどちらかというと多神教の面が強いところがある。しかし真実をみなが軽視しているかといえばそうとも言い切れない。真実一路なんていう言葉もある。あんまりよい意味で使われる言葉ではなく、どちらかというと皮肉のようにして用いられるものではありそうだ。

 大手報道機関が、きちんと真実を伝えないのは、けしからんことである。そうした意見も投げかけることができる。こうした意見において、そもそも真実というのが、なにか直接的な現実のありようを指すのだとしたら、そこには無理があることもたしかだ。報道機関とは媒介であり、鏡であるのではない。現実が加工されるのはある程度はやむをえない。これは程度問題であり、許容量の観点をふまえるのがいる。どのみち、報道機関というのは、多かれ少なかれイデオロギー装置であり、それを脱することはできないのである。経験というのも、生の形でそのまま出すわけにはゆかず、なにかでき合いの形式の中に落としこまざるをえない。

 事実というのはいくつもあるものと見なせる。まずそこから出発すればよいのかなという気がする。といっても、2つの事実のあいだで 180度異なった見解になるとすると、ぶつかり合ってしまう。そうしたさいに、どちらを優先するべきなのかは前もっては言えない。無難なことをいうのであれば、たとえ真っ向から対立してしまう事実があったとしても、どちらかを優先させるというよりは、両論併記のような形をとるのがのぞましいだろう。それくらいのゆとりは欲しいものだ。

 人間の脳は、一般論でいうと、一貫性を好む。支離滅裂なものをきらう。なので、一貫したものについての信念の志向性をもちやすい。そうした傾向は、創造性をもたらすいっぽうで、認知的バイアスによる認知の歪みをももたらす。両面価値的だといえるだろう。なにかひとつの見かたや物語にこだわってしまうようだと、呪物視(フェティシズム)におちいることになる。そうしたありかたが強くなると、確証となり、閉じてしまうようになる。

 真実一路ではなくて、真実多路といったありかたもよいのかもしれない。多方向に開かれているありようである。開かれているとはいっても、そうしたありかたは不真面目であるとして、何かよこしまであると見なされかねない。しかし、ものごとは一面だけではなく多面であるのをふまえることもいる。だから、いきなり真実から演繹してしまうのではなく、複数ある事実から帰納してゆくのがよいのではないか。そうしてたがいに反論を許すかたちによって、弁証法的に運動する自由が大きいほうがよさそうだ。意味というのは結果ではなくその過程にあるともいえるそうである。