現実主義をはばむもの

 現実主義が足りない。もっと現実の生のありように沿ってものごとを見ないとならない。リアリズムをよしとしているわけだ。このさいのリアリズムにおけるリアルとは、理ある(理が有る)でもあるのかなという気がした。たんなる言葉遊びにすぎないのはあるんだけど、ふつうリアリズムというのは、われこそはその体現者であるといったふうに使われる。自分こそがリアリストであるとして、自分に理を付与しているのだ。

 これはちょうどオリエンタリズムと似た構造になっていそうである。オリエンタリズムでも、オリエンタルという客体がいて、オリエンタリストという主体がいるそうだ。かんたんにいうと、客体であるオリエンタルは野蛮であり、いっぽう主体であるオリエンタリストは文明的な筆記者である。こうした価値づけのありかたが、リアリズムにもまた当てはまるところがある。

 欧米なんかだと、現実主義と神秘主義がきちんと分けられているという。しかし日本だとこの両者が何となくあいまいにされたままになっている。そもそも、日本ではきちんとした現実主義はなかなか成り立ちづらいところがありそうだ。なぜそうなのかというと、ひとつには甘えの構造が大きいせいではないだろうか。この情による甘えの構造を、どうしても断ち切りがたいのである。なので、理あるではなく、理足らずみたいになりやすい。だからそこを省みることもあったらよさそうだ。

 現実主義をとりづらいのには、いさぎよさをよしとしてしまうところも要因としてはたらいていそうである。われわれにはねばり強さとか、根気強さといった点がどうしても足りない。もちろん、なかにはそうした点をしっかりともっている人もいるだろう。しかし全体のなかではごく少数派であることはまちがいがない。

 いいものはいいだとか、悪いものは悪いだとかして、ありきたりな紋切り型の空話におちいってしまうことが圧倒的に多い。勧善懲悪の分かりやすい図式は必ずしも悪いものではないが、そこで停止してしまうと見かたが深くはなりづらい。善悪なんかでも、もうちょっと細かく見て、部分に分けてみたりすることもあったらよいといえる。そうすれば敵対しているもののなかにも共通点が見つけ出せる。

 哲学者のハイデガーは、経験世界を 4つに分類しているという。道具的世界と客体的世界と共同世界と自己世界である。これらが互いに影響し合っているのだそうだ。道具的世界は、身近な環境世界をさす。客体的世界は、学問などの抽象的な世界である。共同世界は、人との関わりなどの社会的な関係による。

 この 4つの世界のつり合いみたいなのが大事になってくるのだろう。たとえば、客体的世界だけを重点的に知ったところで、それで世界を総体的に知ったことにはなりづらい。学問的な抽象の世界によって、現実が演繹されるわけでは必ずしもないだろう。学問ではしばしば要素還元の手法がとられるが、それは具体的なものごとのありようをそのまま映し出すものとはいいがたい。なるべく 4つの世界のそれぞれがいびつにならないようにしていったほうが、より現実をうまく見られるようになることがのぞめる。

 集団をとりまとめるためには、あるていどの理想というのはいるのだという気がする。そうした理想をまったく排して、ただ現実だけに根ざすのではかえって難しそうだ。理想をまったく排して現実だけをふまえるというのは、逆に非現実的になりかねない。

 現実とはしばしば身もふたもないものである。不条理でもある。なので、不確実ではあれ、希望みたいなのがないと生きてゆきづらい。そこのかねあいは、本来性と現実性のバランスの問題なのだろう。本来性は、ともすると現実性からかけ離れてしまうおそれがあるが、そうして分裂するのだけではなく、おたがいに相互関連的でもある。その相互関連的な面もまた無視はできない。