自業自得の線引き

 自業自得の人と、そうでない人を線引きする。これが政治の仕事の一つなのだという。次期衆議院議員選挙に、日本維新の会から出馬をめざす、長谷川豊氏はそのように発言したそうだ。この発言については、そもそも自業自得かを線引きするのは政治の仕事ではなさそうだなという気がする。というのも、そうしてしまうと憲法違反にあたるからである。

 政治家というのは、あくまでも憲法を守ったうえで活動をすることがいる。なので、それを無視するのはまずい。たとえ自業自得なのが不道徳であると見なすにせよ、そこから法のもとにおいて人を不平等にあつかってよい理由にはならないだろう。

 すべての人は生存する権利を、生まれながらの自然権としてもつ。しかもそれはたんに生きているだけというのではなく、自分の生をより充実させて、より自由になってゆくように、ほんらいは国も率先して手助けしなければならない。

 憲法による立憲主義をふまえれば、長谷川氏のいうような自業自得かどうかによる線引きというのは、政治の役割でも何でもないことが導けるのではないだろうか。政治に正義や道徳をもちこむのは、自由主義にあまり合わない。今の日本をふくめた近代の憲法は、こうした自由主義がとられたものでもあるという。

 政治において線引きするのはちょっとまずいとは思うけど、共同体主義なんかでいう、共通善といわれるのをふまえるのはあってもよいのかもしれない。なるべく不摂生をしないように生きるのが美徳なのだというような。しかしこれも押しつけになってしまうとまずい。健康というのは、価値判断やモラルがかかわってくるものなので、あまりそうした点に強くこだわりすぎないようにすることもいるだろう。

 できるだけ精神論ぬきで見るのもよいのではないかという気がする。心は脳にあるなんていうのが脳科学の知見からも見いだせるのだから、そうした切り口を活用しない手はない。人の脳がおちいりやすいぜい弱性のようなものをもつのだとしたら、そこに変にあらがってみても、うまく行きづらい。

 今の医療は高度化して細分化してしまっている。人体を部分にして見ているために、全体からの視点が欠けているのは事実だろう。そこを補うために、有機的で包括的な治療のとりくみがあるのがのぞましい。医療が進歩して発展してきているとはいえ、そのいっぽうで治せない病気の数もまた増えているという逆説があるともいわれる。現代医療に見放された気の毒な患者の数は決して少なくない。

 有機的で包括的ということでいえば、たんにのぞましくないものを、外科手術的に切除(排除)すればそれですむという話ではないのではないか。そこまで話は単純にはなっていなさそうだ。社会のなかには矛盾というのがあってしかるべきだし、それをなくしてしまうようだと、社会そのものが成り立たなくなってしまうおそれもある。純で透明な共同体のありかたは、ロマン主義的な虚偽でもありえる。物質的な幸福だけを追い求めてきた、これまでの社会のかたよったあり方の報いの面もあるとすれば、そこを省みることもしないとならない。