セルフスタンドと自己

 ガソリンスタンドの前に、でかでかとセルフと書かれた看板が立ててあった。自分で給油する店であることを示している。たんにセルフの文字だけに注目すれば、直訳すると自己ということになる。なんとなく、自己という概念を突きつけられているようなふうにも受けとれた。

 自己というのは、自我(エゴ)と外界とのあいだに挟まれたものであるという。会社でいえば、中間管理職のようなものだろうか。それで、圧がかかって、しばしば弱ってしまうようなところがある。2つのあいだで、うまくバランスをとることに失敗してしまう。

 いまの時代は、ほうっておくと、外界や自我からの圧が強くかかってしまうところがある。たとえば、外界には規範があるわけだけど、あまり規範を一方的に押しつけられるのはつらい。一般的なものばかりではなく、個人の具体的な事情もかかえている。外界の規範と自我のうち、どちらかの側を優先させると、もう一方の側をないがしろにせざるをえない。

 空間において、なにかが場所を専有すると、ほかのものはその場所をゆずらざるをえなくなる。場所の数がかぎられてしまっているためである。そこから、覇権の争いがおきてくるわけだ。外界の規範か、それとも自我が求めるものか、どちらを優先させるべきかが分かれる。順位づけをおこなう。序列という観点を無視することができない。たんに空間的に、色々なものが並列していて、それでよし、とはなりづらい。

 まだ、主体としての意欲がそれなりにあれば、自己のバランスをはかる力も保てる。しかし、主体性が損なわれてきて、自己が弱体化してしまうと、外と内からくる圧に耐えられなくなってしまう。外界の規範を絶対化するか、もしくは内なる自我の欲(やりたいこと)を絶対化するかになる。どちらかに偏ってしまい、統制を失う。

 われわれはまず、バランスをとる役をになう自己が、いかに弱体化してしまっているかというのをまず認識するべきなのかもしれない。個人や、集団においてそうした現状がありそうだ。複雑なあり方のなかでは、そもそも何が原因で何が結果なのかがわかりづらい。割り切れない、解決されない感情がたまってゆく。

 いっけんすると強そうな主張を言っているのだとしても、じつは弱った自己のあげるうめき声だったり、叫びや悲鳴のうら返しにすぎないといったおそれもある。あくまでもひとつの解釈にすぎないが、表出されたものをそう捉えることもできるだろう。

 たとえ一部からであっても強い不満がおきないように、まんべんなく承認を満たすのは、社会の中では難しいことだなという気がする。じっさいには、少なくともどこか一部が、排除や排斥されてしまうところがある。そうしないと、全体の秩序がなかなか保てない。

 経済は有用性の回路によるが、そこから外れたところで、人間(集団)のもつ過剰さの力を、蕩尽することがいる。あくまでも平和的であるのがのぞましい。そうでないと、来たるべく、破局による危険を回避できないのかもしれない。

 あまり悲観しすぎて、いたずらに危機をあおるようなことを言ってしまうと、的はずれになりかねない。そうした部分もあるが、たとえそこにじっさいに形となった声がないのだとしても、弱体化した自己の鬱屈みたいなものは、蓄積されているのではないかという気がするのだ。それが出口を求めてさまよい、見せかけの助け舟としての政治的崇高(ディオニュソス)と結びつくようだと、危ないところがありそうである。可燃性が高い。