委員会の結論

 いじめとおごりの境い目がちょっとわかりづらいと感じる。背後にいじめがからんでいたとすれば、おごりもいじめと関わっているのはありえる。なので、おごりをしたのはいじめがあったからだとも言える。このさい、おごらされていたのであればいじめであるのは間違いない。

 (元)小学生が、計 150万円にものぼるお金を級友に支払ったとして、教育委員会で問題にされた。額が大きいのが気になるが、これは、小学生が福島の震災から避難してきたために、賠償金をたくさんもらっているとして、級友たちから目をつけられたのもあったらしい。

 教育委員会では、このお金の支払いについて、いじめであったのかは疑問だとの結論を下した。なぜこの結論にいたったのかは正確にはわからないが、おそらく、小学生がおごらされたとは断定して見なかったためだろう。そうではなくて、自分で級友におごったとの見かたも捨てなかった。小学生は、級友たちからプロレスごっこで激しく叩かれるなどの攻撃を避けるために、お金を払ったという経緯があるという。

 教育委員会は、いじめであるとの結論を出すのは控えたようだが、背後にいじめがあったことは認めている。正直いって、この教育委員会の出した結論は、全くわからないといったものでもないなと個人的には感じた。かりにこの件が警察にまかされたとして、小学生がおごらされたとするのを立証するのは易しくないような気もする。おごらされたのか、それともおごったのかを線引きできづらい。

 客観的な視点に立てば、お金の支払については、いじめであることを証明しづらいのかもしれない。状況証拠しかないのなら、あまりはっきりとしたことは言えそうにない。ただこの件の場合は、いじめに疑問符をつけてしまうと、世間の感覚から大きく隔たってしまう。結論を出すにあたり、そうした世間の声もとり入れるようにできたほうがよかった。いったい誰が弱者だったのかという点をふまえてみるのもいる。それはやはり、当の小学生であるのはたしかである。

 客観性も大事ではあるが、いずれにせよ外部からだと認知的バイアスがかかってしまう面がある。外から意味づけをしている。意味づけをするさいに、勧善懲悪になってしまうのだと、いささか図式的すぎるのはたしかだ。そうかといって、弱者を救い出さないような結果となるのでは、全体として公平にはなりがたい。まだ世間の道理なんかをしっかりとは身につけづらいのが小学生くらいの年齢だから、そうした部分があって、判断を難しくさせてしまっていそうだ。