日本の自殺を防ぐ

 日本の自殺という題の本を見かけた。日本は自殺率が高いから、その深刻さだとか、なぜ自殺してしまうのかをあつかっているのかと思ったら、そうではないようだった。国としての日本がこのままでは自殺をすることになってしまうのを述べているものであるようだ。国家論である。

 日本の国のありようを憂いているのであれば、憂国論をとなえるのはよいことかもしれない。日本の自殺もたしかに問題ではあるが、それにくわえて、日本の他殺もまた問題なのではないかという気がした。日本の自殺を憂えるのはよいが、それが行きすぎれば、日本の他殺になってしまう。これは、日本が他殺をする、ということである。

 日本の自殺は自己破壊であり、いっぽう日本の他殺は他者破壊といえそうだ。日本の自殺におちいってしまうよりかは、まだ日本の他殺のほうがましだと、はたして言えるのだろうか。そうかといって、日本の他殺におちいるよりかは、日本の自殺のほうがましだとしてしまうと、自虐におちいりかねない。

 のぞましいのは、日本の他生になることではないか。日本以外の他を生かすによって、日本もまた生かされるという。日本の国内でもみなを生かせればよい。これはすでにある程度は実現できているとも見なせる。しかしまだ十分とはいえそうにない。とくに近隣諸国とのあいだではもめごとを抱えてしまっている。これはどちらか一方が悪いとはいえないものではありそうだ。被害者意識が連鎖してしまっているところがある。

 自他のすべてを生かすのはのぞましいが、現実的にはうまく行きづらい。秩序を築くためには、何かが排除されることがいる。そこで、自分で自分を排除することもできなくはない。こうした面が、日本の自殺につながっているともとらえられる。犠牲になっているわけだ。この犠牲というのは、被害者になっていることをさす。そこから陰謀理論なんかを見いだすこともできる。その点については、(別から見れば)加害としての面もあることを無視はできない。また、たんに自滅してしまっているおそれもある。

 自殺とか他殺とかいってしまうと、やや物騒な言いかたであるのはいなめない。ただ、必ずしも行きすぎた言いかたではないともいえるだろう。たとえ今は表面的にはおだやかでも、嵐の前の静けさといったこともなくはない。ささいなきっかけで破局にいたる可能性はある。だから自殺というのは、いたずらに危機をあおることにはならない面がある。あと他殺というのでは、他と息が合わなかったり価値がずれることがある。とくに、意思疎通がうまくしづらい相手とは、その関係がときにいちじるしい不快をもたらす。憎悪表現(ヘイトスピーチ)を生む。

 日本の自殺がもし緩やかなものであるとしたら、そこまで慌てることはいらないかもしれない。着実にこれから手を打ってゆけばよい。しかしもし性急であるとしたら、早く手を打たないと間に合わないから、あせってしまう。危機意識が高まり、あせる気持ちが強いあまりに、内外での利害の対立が激しくなる。こうなると、排斥する動きが力をもつ。そうした排外思想の広まりの点に注意することがいりそうだ。