決まりを破ることの是非

 規則を破ってしまうのは、いけないことなのかどうか。これがちょっとはっきりしづらいなと感じた。政治においては、立憲主義の決まりを守ることがいる。しかし、たとえば選挙のときなんかでは、その期間は日常(ケ)ではなく非日常(ハレ)みたいなところがあり、表立って相手を悪く言っても許されるといった通念がなくもない。赤信号みんなで渡れば怖くない、みたいなふうだ。

 じっさい、先の東京都知事選では、石原慎太郎氏が、小池百合子氏にたいして、化粧が厚いとして口撃をした。いまではその人格口撃が裏目に出てしまっていそうで、小池氏は石原都政のまちがいをおもて立って追求している。もし自分への人格口撃がなければ、小池氏ももうちょっと追及の手をゆるめたかもしれない。もっとも、この見かたはゴシップ的だから程度が低いし、たんなる下衆の勘ぐりにすぎないのはある。

 ちょっとかたくるしいかもしれないけど、憲法をふまえれば、こう言えるだろう。公共の福祉とか人権とか尊厳とかをふまえたうえで、はじめて表現の自由が認められる。これは規則であり、重んじるに値する。しかし、そうした規則を軽んじてでも、真に迫るようなことを言おうとする誘因がときにはたらく。裏をかいてでも、いまある合理性を破って、さらに高次(または低次)の合理性へいたろうとする。

 決まりを破ってしまうのは、テロと似ているようである。規則に違反してはいるけど、そのいっぽうで、テロは自由の闘争ともいわれる。もっとも、こうしてテロを安易に持ち出してしまうと、話が大げさになってしまうのも否定できない。あくまでも極端に言えばの話である。

 一国の中であっても、立憲契約の決まりが守られるのは、お互いの利害が対立していないときでないと難しそうだ。いったんカッコに入れるなどをする。利害が対立してしまっていると、ゲーム理論でいわれる囚人のジレンマ状況をまねく。協力的な人が多くいても、非協力的な人がいると、その人がきわ立ってしまうことがおきる。

 規則というのは、ゲシュタルト心理学でいわれる地と図のような面があるのかもしれない。図として重んじることもできるが、逆に地として軽んじることもできる。もとは、最低限の論理みたいなのに支えられたものではあるのだろう。それが、措定されたときから時間が経つことで、現実とのあいだに溝がしだいに開いてゆく。

 その溝の広がりに加えて、経済学における限界効用逓減(ていげん)の法則がはたらく。効用が下がってゆくわけである。不満がつのってゆき、疎外を生んでしまう。その疎外をふまえつつ、情のかかわる効用をどう高めるのかが、むずかしいところなのだろう。

 ときには、決まりを破ることもやむをえない。非常時では、決断主義が正当化されるという。ただ、そこには危険性が含まれてもいそうだ。ことわざでいう、雨降って地固まるではないが、誰かが非協力的になって決まりを破ることで、結果として決まりの価値みたいなのが再活性化することもありえる。

 決まりを破った人は、もし戦略としてやっているのであれば主体的である。そのいっぽうで負の印(スティグマ)を自分からすすんで背負いこみかねない。自分が踏み絵となるといったあんばいだ。そこに、戦略的な違反者のぜい弱性がおきるのではないかという気がする。

 決まりを破った人がいたとしても、一般人なら、むやみに叩かれないのがのぞましい。無罪推定の原則もないがしろにできない。しかしもし権力者であれば、放置するわけにはゆきづらい。権力者とはいっても人であるから、これでもかとばかりに叩くのはあまりよいことではないだろう。そこのさじ加減は難しいが、少なくとも叩いたり反発したりする建て前はできることはたしかである。権力者であっても、場合によっては、することである結果をあくまでも重んじることもできる。そこは許容量もからんできそうだ。

 決まりがあることで、二重運動を呼びおこす。否定と回帰や、禁止と侵犯の動きとされるものである。この 2つのあいだを、振り子のようにして行ったり来たりするとして、その幅が大きいと危ない。極端にかたよらず、中庸をとることもいるのではないかという気がする。あまり圧がたまらないようにしておくのがよさそうである。