専制エリートは悪か

 専制エリート主義はよくない。元大阪市長橋下徹氏はそのように言っている。しかしこれは本当なのだろうか。というのも、たとえば日本の江戸時代なんかは、民主主義ではなく封建主義だったから、その点でいえば専制エリート主義のようなものではないかな。エリートとは儒学者である。それで 200年とちょっともいちおう続いたのだから、すごいことなのではないか。ただし、あまり美化しすぎるのはまちがいかもしれない。

 日本は、専制エリート主義ではなくて民主主義の国だというのは、はたして本当なのだろうか。この点についても疑えるような気がする。というのも、官僚の存在があるからである。官僚とは、選挙で選ばれはしないものの、(裏の)政治家のようなものであるとも言われている。政治において、官僚の意向がけっこう強くはたらく面をもっていることは否定できそうにない。官治によるあり方だ。

 官僚による官治のありかたは、アポロ的である。ディオニュソス的なものではない。前例主義をよしとするあり方である。付和雷同を好む。一人だけ抜きん出て何かを改めたり革新したりしようとはしない。空気を読むことに長けているといえそうだ。

 日本のいまの現状においては、民主主義や政治が洗練されてきているとはちょっといいがたい。むしろ劣化していはしないかな。(国会で)中身のある議論をされている気がどうもしない。もし洗練されているものがあるとすれば、それは官僚の支配だろう。それがいいことなのか悪いことなのかは、どちらとも言い切れない面がありそうだ。負の面としては、官僚が勝手にものごとを進めてしまい、透明性が失われることがあげられる。あと、的はずれな見かたを、正しいものとしておし進めるおそれもある。

 いっぽうでは、専制エリート(というと言い過ぎだけど)としての官僚のはたらきにおいて、益になるというか、功績みたいなのも無視できそうにない。連続性や持続性の視点などである。そうしたものを、さも民主主義の手がらみたいなふうにして語るのにはちょっと違和感がある。ここは、制度としてはっきりと区別しづらいところなのだろうと思う。あいまいさがあるというふうである。

 選挙活動における決まりである公職選挙法についても、いまの時代のちょうどよさ(ジャストさ)とはかなりずれてしまっているのは明白だ。民主主義が機能不全をおこす一因になっている気がする。選挙カーで名前を大声でくり返し連呼されるのは、有効な手法であるとはいえ、聞かされるほうにとってはほぼ迷惑でしかない。国政選挙の時機(タイミング)にしても、なぜ総理が恣意的に決められるのかが納得がゆかない。国民が翻弄されてしまう。

 エリートやマスメディアは、上から目線で、大衆をしばしば下に見ている。しかし、大衆は馬鹿ではないから、馬鹿にすべきではない。この意見には賛同できる。うなずけはするのだが、それだったら、もっと大衆を尊重するのがよいのではないか。そう感じる。現実には、大衆を尊重するような状況にはどうもなっていないと思えてならない。公であるお上の都合が優先されすぎている。

 たとえば、長時間労働の常態化などをとってみても、これはお上が大衆を馬鹿にしているのがあらわれている気がする。大衆にへたに頭を使わせず、馬車馬のようにはたらくのが正しいとしている。しかし本来であれば、人間らしい生活をおくるためには、文化的な活動に割く時間を多く持てなければならないはずだ。ただし、はたらくのが何よりも好きな人もいるかもしれない。

 そういうわけで、民主主義はよいにしても、専制エリート主義は悪い、とする意見には必ずしも賛同できない気持ちだ。欺まんがある。そうして肯定される民主主義とは、理想郷としてというか、理念の上でのもののような気がする。じっさいには、現実の政治はもっとどろどろしている。なまぐさいものだ。民主主義は残念ながら、決してきれいなものにはなっていないのではないか。

 民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが。これは、ウィンストン・チャーチルの言葉である。この指摘は誇張が入ってはいるが、けっこうしっくりくるなあという気がするのだ。民主主義に期待をせずに、突き放している。

 話は変わるのだけど、もしかりにエリートが悪いと言うのであれば、官僚を批判しないとならない。しかし、そこには必要悪みたいな面もあるのではないか。気がつかない専制エリートというのは、知らぬが仏みたいなところがありそうだ。まったくの野放しはまずいわけだけど、いっぽうでは、何ごとも意識されすぎるとかえってぎくしゃくしてしまうこともなくはない。

 かりに官僚と国民とのあいだに意見のずれがあるとすると、そのどちらが正しいかはケース・バイ・ケースとなる。または見る角度によっても異なる。官僚の言い分にも理があることがありえるし、民意が暴走することもありえる。そこは制度や主義の形式がどうかというよりは、内容がどうかというほうが大事なのではないか。ただ、内容を重んじてしまうと、結果論になってしまうのは否定できない。

 民主主義の制度はよいものだとは言えるのだろうけど、矛盾があることもたしかである。そこが弱みだということはいえそうだ。自分たちで自分たちのための法を決めたり、意思決定をすることになる。いわば、自分に向けて自分で力(法的暴力)をふるうみたいなところがなくもない。自由でありかつ不自由である。法(立憲主義)がもつ命令の毒がまわってきてしまい、無法者や混沌を呼びおこしてしまうおそれがあるのに注意をしておくのもいりそうだ。

 行きすぎた混沌はまずいとはいえ、厳格主義(リゴリズム)もまたよくない。厳格すぎると人が機械的になってしまう。だから、自由に近い混沌も頭から否定されるものではない。むしろ歓迎される。ただ注意しないといけなさそうなのは、古いものを刷新すること自体が正義になってしまうおそれがある点だろう。

 文学のカーニバル論では、殺される王の主題というのがあるそうだ。これはときに象徴革命(粛清)をもたらすものだけど、そこには危険性がつきまといそうである。純粋動機主義をよしとして、つっ走ってしまいかねない。大義は虚偽(フェイク)であるという、一歩引いた視点もあるとよいような気がする。