つくりごとの憲法

 個性はもつべきだ。友だちをたくさんつくろう。恋愛はしたほうがよい。正義感と理念を持とう。家族は大切にしなければならない。このような社会における通念にたいして、ことごとくアンチ・テーゼを唱えているのが、オヤジ国憲法なるものであった。漫画家のしりあがり寿氏による。言い回しをふくめて、日本国憲法を少しパロディにしている。じっさいの憲法とはちがい、第 5条と第 15項までしかない。

 ふつうだと、若いことに価値があり、歳をとるのはよくないことだと捉えられるが、そうした見かたを逆転させている。若さは苦であり、はやく楽なオヤジになるべきだというのである。オヤジを明確に肯定している。若さは、オヤジにいたるまでの過渡期といったあんばいだ。若さにくわえて幸せや正しさ(悪)は、どれもすべて勘違いだとして片づけているのが痛快である。

 理念とか真理とかは、持たないほうがよい。これは、今の日本国憲法を茶化しているとも受けとれる。日本国憲法では、国際連合の設立当初における、どこにも敵(国)をつくらないというあり方をとっている。平和主義である。そうした主義をとってしまうと、(いくら正しいとはいえ)理念や真理を持つことにならざるをえない。そうした理念や真理をそもそも持たないようにするのであれば、メタ的といってもよさそうだ。

 ただ、日本国憲法にたいする誤解もあるかもしれない。平和の理念を持っているとはいっても、あくまでそれは一義で決まる準則ではないとされている。大きな道すじとしての価値を示した原理であるという。だから、これはこれで十分に中立的でメタ的なものだということもできる。ここの見なしかたについては、賛否が分かれるかもしれないが。

 家族については、それを美化する姿勢をとっていない。そこが、家族の関わりに苦しんでいる人にとっては有意義にはたらくところがあるかもしれない。思春期に入った人にとって、家族(親)は隣人であるとしている。親が隣人期に入ったというのだ。心理のなかで距離をとることをすすめている。

 親は、子どもからだまされるのを、心の底では不本意とはしていないものだという。どこかでだまされるのを待ち望んでいる。この意見は、ちょっと甘えの心理が入っているような気もする。しかし、子どもから迷惑をかけられるのをあまり悪くとらない寛大で奇特な親もいるかもしれない。ただ、許容量とか程度の問題はあるだろうけど。

 オヤジ国憲法は、つくりごとなわけだし、どこかにオヤジ国なるものがあるわけではないだろう。虚構である。しかし、そうであることによって、かえって現実をとらえている面がある。そこがアイロニーになっているのではないかと感じた。

 オヤジが楽だとはいえ、安易にオヤジを目指していいものなのかは一概にいえない。というのも、生のオヤジとしては、社会のなかで男性が幅を利かせてしまっている強者の面がある。オヤジがものごとを牛耳ってしまっていいものではないだろう。なので、生きかたの理想像としてオヤジがふさわしいかは疑問をさしはさめる。オヤジの自己保存力が、他に迷惑を与えているおそれがある。

 町のなかや身近で、楽しそうに生きているオヤジ(大人)を多く目にすれば、そこに説得力があると思う。しかしじっさいには、同世代内の格差などで、苦しんでいるオヤジ(大人)も少なくないように思える。そうした悲哀が、若い人にも伝わっていってしまっている面があるのではないか。

 オヤジ国とは一つの理想郷といえるかな。みんなの理想というわけではないだろうけど。健康さや肯定性としてのオヤジの力はありえそうだ。老人の力ともいえるかもしれない。若さが実存であれば、オヤジは構造だろう。ちょっとへりくだってはしまうけど、オヤジたちのうちの一人であるとは、大凡下(だいぼんげ)であることだ。なかには飛び抜けた人もいるだろうけど。