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熟語の不たしかさ

 日本語について、ちょっとした不安がおきてくる。といっても、いちおう日本人のはしくれではあるので、日本語は最低限、人に意味がかろうじて伝わる程度にはあやつれているとは思う。もちろん、そのなかでの低度か高度かといった質やレベルのちがいになれば、とても高度にあやつれているとは言いがたい。これは、しゃべるのでも記すのでも、どちらについてもそうである。とはいえ、そんなに高望みをしてもしかたがない。

 日本語についての不安というのは、ちょっと変ではあるんだけど、とくに漢字についてのものである。言語学者のフェルディナン・ド・ソシュールは、記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)の結びつきは偶然的だとしているようだ。たとえば人間の記号表現は、にんげんであってもよいしヒューマンであってもかまわない。

 そうした偶然性と似たように、漢字の 2文字以上の組み合わせは、本当にふさわしいものなのかどうかがおぼつかなくなってくる。ほかの組み合わせも可能だし、もっとよりふさわしい組み合わせがあるのではないかという気がしてくる。全部が全部そうというわけではないのだけど。

 たとえば、勉強という語があるけど、なんで勉と強の組み合わせなんだろうと感じる。勉めるはわかるが、なぜ強がそのあとにくるのか。強いるからなのだろうか。しかし、なぜ強いるのかがちょっと分からないところがある。強いられない勉強もあるだろうから。

 こうした疑いは、おそらく愚問であるにすぎないことはたしかだ。そんなことをいちいちつついていったら切りがない。瑣末な問題だ。そういうものだとして納得するのがいちばんである。それに、なかにはよくできた組み合わせもけっこうある。そうしたものは決して少なくはない。

 いちど組み合わせのたしからしさに疑問をさしはさんでしまうと、そこからゲシュタルト(形態)が崩壊してきてしまう。ただ、崩壊するとはいっても、確からしさが少し失われる程度であり、そこまで大げさな話ではない。ちょっと土台や足場がぐらつくような気がするだけである。

 あらためて見ると、みんななんでふつうに熟語をあつかえているのだろうか。そこがやや不思議といえばいえなくもない。ひとつひとつに納得して使っているというよりは、みんながふつうにこれまでに使っていて広く流通しているから、なんの問題もないのだろう。しかしそれをうら返せば、そんなに裏づけがしっかりとはしていないということを意味してもいそうだ。そこが少し不安である。

 漢字の熟語の組み合わせには、たしか言語学的な法則や分類みたいなのがあったと思う。くわしくは説明することはできないんだけど、ようするに漢字の組み合わせというのは便利なものであり、相生効果がはたらく。お互いを生かすのである。ひとつの漢字だけだと意味がそこまでしっかりと定まらないが、字が 2つ以上になると意味が呼応し合うことでうまい具合になる。すぐれものだというしかない。

 こうした利点をふまえると、何となく安心してくるのもたしかである。われわれは、和漢混交文をもちいて、それを通じて現実を見ているといえるそうなんだけど、そのなかでとくに漢の部分に偏って(中途半端に)意識を向けているから悪いのかもしれない。和(ひらがな)にはとくに違和感がないのである。

 先にあげた、勉強という熟語に違和感があるとしたら、それと似たような勉学とかいう熟語もあるわけだし、そうして言い換えられればよい。ただし、語いが豊富にあり、その中から選べればよいが、一つだけしか候補が浮かばないこともあるかもしれない。

 そもそも、熟語だけをとり上げて見るからいけないのであり、流れとして文脈のなかに位置づければしっくりくる。ほかの語との関わりのなかで意味が定まってくるわけだ。文や段落の全体でひとつの意味を持つ。

 発想の転換も必要だ。自分が日本語を用いているのではなく、日本語が自分を用いているにすぎない。そうした見かたもなりたつ。であるから、日本語の構造がもつ力やはたらきにたいして、自然に身と心を任せるべきである。とはいえ、しばしば齟齬をきたしたり、かみ合わなくなってしまうこともあるかも。そこはむずかしい。

 あらたに自分で勝手に造語をつくってしまうのは、それが広く採用されるかどうかたしかではないので、必ずしもよい手ではないかもしれない。これは、独創性とともに、創造性の土壌があるかどうかもかかわってくる。たとえば中国では、わりあい外来語(西洋語)の新語化(漢字化)がさかんらしい。いっぽう日本だと、外来語はおおむねカタカナ語になりがちだ。カタカナ語も日本語ではあるが。

 熟語とともに、名前のふさわしさみたいなのも関わってきそうだ。ちょっと政治的な話になってしまうけど、たとえば左翼にたいして悪い印象をもっていたとする。しかし、あらためて見ると、この左翼とはいったい何を指し示しているのだろうか。かなりばく然としたものを指し示しているように思える。なぜそうなるのかというと、同一性によって固定化した観念として見なしているからだろう。そういう名前からくる解釈の作用を、もしゆとりがあれば、いま一度解いてみるのもまた一興といえそうである。

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