機会売り場

 宝くじ売り場では、買う人の心理にはたらきかけるように工夫している。縁起のよい日には、たとえば今日は大安で吉日だと知らせるのぼりが店の前に立っている。くじを買うのにさもふさわしい日和みたいな。どうせくじを買うのなら、縁起の悪い日にあえて買わなくてもよいし、せっかくなら縁起がよいに越したことはない。ようは気の持ちようだ。

 売り場の正面の上の方に、チャンスセンターと書いてあった。何かすごくよい響きだなあと感じた。チャンスとはいっても、じっさいには宝くじは、確率としてはそう当たるものではなさそうだ。たとえわずかな可能性だとしても、もしかして、という射幸心がおきるので、そこをうまく商売につなげている。

 宝くじは置いておいて、一般的にいえば、チャンスが広く行き渡るような世の中になってほしい気がする。じっさいのところ、むしろ逆にピンチが全体を覆ってしまったりしていはしないかな。財政難や少子高齢化をふくめて、国そのものがピンチみたいな。国とは別にして、それぞれのピンチは、個々の人の自己責任だとすることもできる。ただそれをそのまま放っておくと、社会全体の効用も下がってしまいそうだ。

 企業社会として、(大)企業をいちばんに優先させるのもよい。しかし、富のこぼれ落ち(トリクルダウン)は、政府のもくろみ通りにはなかなかおきづらい。社会や経済のこれからのばく然としたピンチをあやぶむ潜在的な心理が、人々の財布のひもをたやすくゆるめさせないでいる。

 悲観をすることもできるわけだけど、いっぽうでは、政府の経済政策により、失業率が下がってきていたりもするようだから、必ずしも先行きを不安視しすぎるのはよくないのかもしれない。景気の先行指標といわれる日経平均株価はいぜんとして高値で推移している。社会の中においては、利他的であるような、弱者の救済に尽力している善意の人も(十分ではないにせよ)いることはたしかだ。

 ただ、失業率なんかでいえば、日本では統計の数字にはあらわれてこない、泣き寝入りしてしまっている人たちもいるともされている。こうした人たちをもし数字に組み入れれば、失業率は今よりも大幅に上昇するだろう。また、帰属(メンバーシップ)はあっても職能(ジョブ)はない、といわれる正規社員のありかたもその問題点を無視できない。企業にいいようにこき使われてしまうようでは、それぞれの個の生を膨らませようがない。

 中国の古くからある思想では、生民思想というのがあるそうだ。これは、みんなで富を分かち合うということで、民を生かすというものである。お互いにゆずり合うというのはじっさいには難しいところがあるけど、これは市場による等価原理ではなく、贈与原理によっているせいもあるためだろう。

 ピンチはチャンス、などとも言い、じっさいにそういう面もあるだろうけど、意欲がないとなかなかそうは思いづらい。ピンチのあとにまたピンチがあれば、意気ごみがくじけてしまう。うまく個人のかかえるピンチを乗りこえられるように、社会のなかで手をさし伸べられたらさいわいだ。くわえて、機会の多さとともに、結果についてもなるべく平等であればよい。

 生き物として生まれてくるのは、1億円の宝くじが 1万回連続して当たるくらいのまれな確率である。そうした説もあるようだ。ちょっと陳腐な言い方になってしまうかもしれないが、奇跡であるといえよう。なので、それにふさわしく、できれば個のもつ生きるうえでの自由の幅が、できるだけ大きく(かつ等しく)なるようになればよいと感じる。