反動としてのポピュリズム

  元大阪市長橋下徹氏は、新聞社がポピュリズム(ポピュリスト)の言葉をふりかざすのをいましめる。そのことについては、たしかにその通りだなという気がする。そして、ここまでで止まっていればよいのになと感じるのである。というのも、そこからさらに進んで、橋下氏は、ポピュリズム(ポピュリスト)を肯定までしてしまい、なおかつ民主主義の本質とまで言ってしまっているのである。やりすぎだと思う。

 あくまでも推測にすぎないことはたしかだが、橋下氏は私怨を晴らそうとしてしまっているように見うけられる。かつて政治家としてやっていたときに、さんざんポピュリズム(ポピュリスト)であるとして叩かれたものだから、それを今になって汚名をすすごうとでもしているかのように受けとれるのである。これは、偏執症的であるし、正直いって逆効果になってしまっている面がいなめない。

 うら返せば、それだけ理不尽に大手報道機関から目の敵にされ、しつように叩かれていたところがあるのだろう。その点についてのわだかまりやうっぷんが、そんなに簡単に解消するわけではないのはうなずける。自分がやろうとしていることに意義を見いだしていても、それを正当に理解してくれず、ましてやわら人形攻撃を仕掛けてくるのだとしたら、とうてい承服しがたい。あとで個人的な遺恨がのこる。

 そうした個人的な遺恨によって、心のうちに抑圧されていたものが、反動形成してきている印象だ。それでポピュリズム(ポピュリスト)を肯定してしまっているのではないか。極端なことをいってしまうようだが、私怨や私憤を晴らそうとすることには、ほとんど意味がないような気がする。そうではなくて、公憤ならまだよいし、意味があると思うのだ。

 私怨や私憤に意味があるかないかは、人にもよるかもしれない。それに、公憤とのあいだの線引きはそれほど明らかなものとはいいづらい。ひとつには、全体の効用がどうかというのが挙げられる。共感や反感や、または好みなどによるのが私憤だろう。いっぽう、帰結として全体の効用が高まることが導けて、それに怒りが加われば、公憤に当たりそうだ。いずれにせよ、そのちがいは質的なものというよりは、程度のちがいにすぎないことは確かである。

 線引きについてはさておき、過去に受けた仕打ちからの、個人的な恨みや憤りに、こだわってしまうのが人情だ。しかしそこをあえて、できるだけこだわらないでいられたら大したものである。じっさいには難しいことではあるが。そういう姿勢がとれれば、見ていてかっこいいと思う。大人である。

 朝日新聞毎日新聞などは、ポピュリズム(ポピュリスト)などの言葉をふりかざして、読者をけむにまこうとしている面があることは否定できないところがある。しかし、それは橋下氏をふくめた評論家や知識人の人にもまた当てはまることなのではないのか。一般の人にも当てはまるかもしれない。あまりえらそうなことは言えないわけだけど、そうした点にときどきでいいから気をつけてくれたらよい。力技で丸めこもうとするのは、すべての人に有効なわけではないだろう。

 大衆迎合は民主主義の本質というよりは、その危険性の一つといったほうがふさわしそうだ。気を抜いていると、民主主義はあやうい専制主義(デスポティズム)におちいるとされている。そこに対して気をつけておくのはいるのではないか。

 経験や見識をもっているのなら、そうした専制主義の暗部に落っこちてしまうのをそそのかすのではなく、冷静に警告して注意を喚起してくれれば親切である。そうではなくて、大衆といっしょになって、大衆の動きをさらに加速させてしまうようでは、いったい何のための知識や見識なのだろうかと、疑問をもってしまうところがある。それよりかは、大衆から嫌われようとも、抑制をかける役をになうほうが、勇気があるのではないか。

 大衆とはいえ、それは一枚岩ではないだろう。ポピュリズム(ポピュリスト)という言葉がときに的はずれになってしまうように、大衆という言葉もまた同じような面をもっていそうだ。なまやさしい言い方である。むしろ、群衆(群集)といったほうがよりふさわしい。あるいは乱衆(モッブ)でもよい。それは同化圧力をもち、分身どうしが集まったものとして、怪物のごときものであるとされる。そうした動きにたやすく寄りそってしまうのであれば、群衆迎合だといわざるをえないかな。